同じ方向を

ひまだったので、お客さんからお借りしていた河合隼雄「イメージの心理学」を読んでいたところ、次のような文に出会いました。心理療法についてのくだりです。
…現代人がその喪失に悩んでいるような関係が、治療者とクライエントの間に成立すると、過程が動きはじめる。そのときにまず詩的言語を語るようになるのはクライエントのほうであろう。とすると、それを小説の場合になぞらえると、クライエントが作家であり、治療者は読み手ということになる。この両者の関係について、大江健三郎は次のように述べている。「小説をつくり出す行為と、小説を読み取る行為とは、与える者と受ける者との関係にあるのではない。それらは人間の行為として、両者とも同じ方向を向いているものである。書き手と読み手とは、小説を中において向かい合うという構造を示しているのではない」… P196
治療者とクライエント、小説の書き手と読み手。それは、
「向かい合うのではなく、同じ方向を向いている」というのです。
これはけっこう深い示唆を含んでるな、と思いました。
サン・テグジュペリが「人間の土地」で、こう言ってるんですね。
「愛するとは、向き合うのではなく、同じ方向を向くことだ」って。
愛することの難しさ。ぼくは、そのイメージがうまくつかめなくて、いつも悩んでいるのです。まるで星の王子さまみたいでしょ?(笑)
ところで、この本、もしかして村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のモチーフになってるのでは?ちょっと気になりました。

雨の夢

雨が降っている夢を見た。音を立てて降る激しい雨。なぜかそれを喜んでいるぼく。でも、おかしいな、と思い始める。天気予報は晴れだったのに、と。そこで目が覚めた。すぐにカーテンを開け、窓をあけた。ポスターみたいな、平べったい青空が広がっていた。乾いていく植物たち。植物に心はないのだろうが、かわいそうに思う。

化石

061016_06昨日は久しぶりに海に行った。時間を忘れて遊んだ。気がついたらあたりは暗くなっていた。堤防に座り、海に沈む夕日を見ていた。海は凪いでポチャリとも音がしない。ぼくをのせた地球は音も立てずに回転している。赤い太陽は、やがて海に沈んだ。一日の終わりは、うそのように静かだった。061016_05_1今日になって気づいた。頭の中がすっきりしている。もやもやした、つまらない感情が消えていた。写真は砂浜に落ちていた、人の臓器、心。化石化していたのを丸木浜で拾った。

reflections

061016_01
雲ひとつない空。車は峠を超え、山をくだり、広い真っすぐな交差点で止まった。時々、胸のどこかが痛くなるのはキンモクセイの匂いのせい。なぜだろう、いろんなものが距離を縮め、ぼくの体と同化しようとする。いつもなら、距離を保って自分の外に置いておけるのに。今日のぼくは、そういう力が弱っている。061016_02海岸線を走っていると、春じゃないのに、桜の花がたくさん咲いていた。でも、今日は、それが当たり前のように感じられる。ぼくの世界は反射し、リバースする。反射した光は何を失ったのだろう。061016_03

ひげ

「帰りに、いつものを1キロ」
月二回の割合で、店じまいをする頃にかかってくる電話。
ぼくはいつもの豆を袋に詰め、彼の家に寄った。
彼の家は通勤路の途中にある。
ピンポーン
しばらくして開いたドアの向こうで、男が微笑んだ。
「うっ」
ぼくは言葉に詰まった。
「へっへっへー、どお?似合うでしょ」
いつもツルツルの顔が、ヒゲもじゃ。
「いちお、船長だし。このほうが似合うと思って」
船長=ヒゲづらなのか?
そういえば、海賊の親玉はたいていヒゲづらだ。
もしかすると、ぼくだってヒゲづらのほうが仕事にマッチするのかもしれない。する気はないけど。

午後五時の部屋

061013午後五時を過ぎた頃に、機械の部屋に夕日が差してくる。あたたかい黄金色の光が、部屋を満たす。光に包まれていると、遠くでざわめく音が聞こえてくる。ちいさい頃に、いつも聞いていた音。何の音か分からない。心臓の音のような、海の音のような。

ボサノバの夜

お酒があれば、さらに良いのだけど。
一人の夜。
開けた窓から吹き込む風がやさしい。
音楽は、スローなボサノバ。サックスの音。
彼女は夜の声でやわらかく歌う。
あなたのこと、知ってるわ。
知っているって、なにを。
ぜんぶよ。
それでやさしいのか。きみは。

空箱

Tokuri_01昼過ぎ、サラリーマンだった頃の同僚が遊びに来た。彼とは、よく飲みに行ったものだった。まず一軒目でバーボンを一本空け、次に、深夜まで開いているショットバーでダイキリを飲む。いつもこのパターンだった。酒の肴は、理想の女についてだったり、相対性理論だったりした。彼もぼくも科学大好き少年だったので、自然の謎についての話が弾むことが多かった。
「顕微鏡で自分の精子を見たときは感動したな」
グラスを傾けながら、彼は感慨深げに言った。負けたと思った。どうやって自分の精子を抽出したのかは、聞いたような気もするし、聞かなかったような気もする。そんな話の中で、ぼくはたぶん、
「トックリバチの巣をまだ見たことがない。一度見てみたい」
と言ったのだと思う。
Tokuri_02小学生の時、通学路でぼくはそれらしきものを発見した。どう見ても、図鑑に載っているトックリバチの巣だった。それは、知らない人の家の塀の向こうの木にぶら下がっていた。ぼくは塀によじ登り、それをちぎって大事に持ち帰った。しかし、それは干からびたザクロだったのだ。
彼はその話を憶えていて、トックリバチの巣を持ってきてくれたのだった。それはお菓子の箱に入っていた。想像したのより、ずいぶん小さかった。遠い昔、田舎のばあちゃんがグリコの空箱にクワガタを入れてくれたのを、ふと思い出した。

備忘として

この日、ぼくは奇妙な体験をした。
それが起きたのは昼前だった。豆を焼き終わってホッとしている時、突然、何の脈絡もなく、ある施設の風景がリアルに頭に浮かび上がった。そこは約10年前、仕事で訪れた地方の施設だった。その時一度行ったきりで、特に思い出になるような出来事もなく、そこを訪れたことなど、すっかり忘れてしまっていた。そんな、どうでもいい施設の風景が、突如、現実感を伴って思考の中に立ち上がってきたのだ。とても驚いた。施設の駐車場の隅に何か黒っぽいものがいくつも積み重ねられているのが見え、そばに近づけば、それが何であるか分かるような気がする。実際、ぼくはそばに寄って確かめようとした。(この時点で、この体験はかなり異常だぞ、と思った)が、そこで風景が曖昧になり、わからなくなった。不気味なくらい現実的だった。ただ、夢と同じで、今ひとつはっきりせず、もどかしい感じがあった。奇妙な体験だったので、こりゃ~いいブログネタが見つかったワイ、と喜んでいたのだった(笑)
これだけでも十分おもしろいと思っていたのだが、帰宅後、いつものように友人のブログを見て回っていて鳥肌が立った。あるブログにその施設の写真があったからだ。書いた本人によると、今日、そこに行ったのだと言う。ぼくはそこで初めてその施設の名前を知った。仕事で訪れた時点では知っていたのだろうが、まるで憶えていなかった。ぼくはそのブログの主に、何時頃そこに居たのか聞いてみた。30分ほどそこに居たといい、そしてその時間は予想通り、ぼくが白昼夢?を見た時間とピタリ一致したのだった。