電話

061002今日は定休日。天気は悪くない。風もさらりとして、ドライブ日和と言ってもいいくらいだ。しかし、先日ひきかけた風邪のせいか、わずかに体が重い。顔を洗ったあと、屋上のレモングラスの葉を2枚むしりとり、それでお茶をいれた。屋上のベンチに腰掛け、ぼんやりとレモングラスティーを飲む。なにも考えないから、なにも浮かばない。あたりまえのことだが、勤務先から電話が来ることもない。わが家は街から離れた高台にある。がけっぷちなので、とても見晴らしがいい。それに静かだ。静かすぎると落ち着かない人もいるけれど。
突然、携帯が鳴った。上司からだ。
時空を超えて届く、組織からの電話。
「実は君の顧客名簿のことなんだが」
上司はいつもの声で言った。
「ぼくのは全部捨てました。なにもありません」
「そうか。そうだろうな」
相手はため息混じりに言った。とても残念そうだった。
ぼくが会社に勤めていたときの上司からだった。数ヶ月前、彼が会社を辞めたという話は風のうわさに聞いていた。自分で何か始めるらしかった。そのために、顧客データを集めているのだった。
「ぼくは今、月曜日が休みなんですよ」
明るい声でそう言うと、ぼくは電話を切った。

地下道

今日は定休日。天気は、そう悪くないが、なぜかドライブという気分にならなかった。先日ひいた風邪の余韻が、まだ体の隅に残っている。じっとしているのも退屈なので、「地下道」の地図作りでもすることにした。「地下道」の入り口はキッチン裏の納戸の奥。大きなダンボール箱をいくつか引きずり出し、奥の壁の合板を横にずらすと、小さなドアが現れる。まるで推理小説の一こまのような仕掛けだ。ドアをくぐり、狭い階段を降りていく。ひどくカビ臭い。3メートルほど下ったところで鉄製の扉に突き当たる。扉を木で作らなかったのは、家を建てた当時、扉の向こうの湿度が異常に高かったからだ。木製だと、たぶん1年もしないうちに腐ってしまっただろう。この扉を開けるのには、ちょっとした心構えが必要だ。というより、できたら酒を軽く一杯引っかけてからの方がいい、と、思う。3年前の夏のことだ。ひどく扉が重く、いくら押してもなかなか開かなかったことがあった。扉が少し開いた時、向こう側を覗き込んだぼくは腰を抜かした。おびただしい数の、干乾びて毛皮と骨だけになった動物の死骸。それが山のように折り重なって異臭を放っている。扉を塞いでいたのはそれだった。いったい、ここでなにがあったのだろう。とにかく、今まで見たことのない異様な光景だった。その夜、ぼくは原因不明の熱を出した。心の準備無しに扉を開けると、ひどい目に会う。
ぼくは持ってきたCDプレーヤーを足もとに置いてスイッチを入れた。山下達郎がパワフルな声で歌い始めた。それでも不安は消えなかった。ぼくはボリュームを上げた。錠をはずし、鉄の棒を引き抜く。彼の歌声に勇気付けられ、扉を押す。小さな悲鳴を上げつつ、扉は開いた。臭いは予想外に少なかった。ほっとした。扉の向こうには一畳ほどの踊場があり、その先から石積みの狭い階段になって、さらに地下へと続いている。蛍光灯が冷たい光を投げていた。石積みの階段やその先に張り巡らされた地下道は、家を立てる際に偶然見つかったもので、いつ頃できたのか、何のために作られたものなのかは不明だ。ネットで調べたが手がかりはなく、全く分からない。石の階段が見つかった時、家を設計した友人が、おもしろがって、このままにしとこうと言いだし、埋めずに残したのだ。ただひとつ、これまでの探検で、ぼくなりに分かった興味深い発見がある。わが家は高台のがけっぷちに建っているのだが、いくつかある地下道のひとつは、そのガケの切り立った面に開口し、その長さ、広さが、小規模ながら航空機のカタパルトを連想させるのだ。

信号待ち

日曜日だけど、ぼくは仕事。通勤途中、信号待ちで大型スクーターといっしょになった。乗ってるのはカッコイイお姉さん。ヘルメットからあふれ出た長い髪を、くりかえし、指で梳かしている。女性が髪をいじってる姿って、色っぽくていいよね。その美しい髪に見とれていると、ふと、奇妙な謎が浮かんだ。考えてみれば不思議じゃないですか。なんで、あんな、糸みたいなのがアタマにいっぱい生えてて、背中まで伸びてるの?ね、不思議じゃないですか。変な生き物だよねー、人間って。え?変じゃない?変なのはぼく?そうかも。

7の呪縛

明日から10月。2000年10月1日に、ぼくの店はオープンした。今日で丸6年になる。明日から7年目に突入。ぼくにとって、7は因縁深い数字だ。気づけば、なぜかいつも、すぐそばに7という数字が寄り添っていた。ぼくの意思に関係無く付きまとう不思議な数字だった。それに気づいたとき、奇妙に思うと同時に、ぼくは歓迎した。悪い数字じゃないと思ったからだ。しかし今、ぼくはそれと決別したいと思っている。7の因縁。それを意識しはじめた時点で、なにかが壊れたようなのだ。無意識裏に進行していた何かが停止した。取り返しのつかない何かが。そんな気がするのです。

手の中のDora Maar

Dora_01朝起きて夜眠る。今日のぼくは、昨日のぼくの続きだ。でも、ぼくが知らないうちにぼくは変化している。年をとるのも変化かもしれないが、そういう緩やかな変化ではなく、たとえば、この前までネコだった自分が、気づいたらカラスになっていた。そういう変化だ。なぜ今さらそんなことをいうのかと言うと、いつの間にか、ぼくの絵や詩の好みが信じられないくらい変わっていてビックリしたからだ。たとえば、ピカソのDora Maar。この前までたいして気に留めなかった、変てこな顔の女性が、今こうして手の中にあって、笑顔を交わす仲。とてもとても好きなのである。絵や詩は情報だから永遠に止まっている。ぼくはシステムなので変化する。そういう定点から観測すると、自分がダイナミックに変化しつづけているのに気づく。

底なし沼ツアー

肌寒い秋の深夜、いわれのない悲しみが押寄せてくる。友は目の前で底なし沼に沈んでしまった。むかし見た映画、ネバーエンディングストーリーでのワンシーン。悲しみに捕らえられた愛馬アトラクスは、主人公アトレーユが必死に手を尽くすのもむなしく、悲しみの沼に沈んでいく。今夜がそんな夜だった。沈んでいく感じを振り払えない。秋になると毎度のことだし、あきらめた。底なし沼ツアーの始まりだ。ところが、熱いシャワーを浴びたとたん、ぼくはかなり生き返った。そうだった。ぼくは忘れていた。そううつだものさんのブログで学んだことを。体を冷やしてはいけないのだった。その時ぼくは、パンツにTシャツ一枚だった。夜風がかなり冷たかったのに窓はあけっぱなし。寒くても平気なのだ、ぼくは。別な言い方をすれば、鈍いのである。そううつだものさんのブログによると、鬱を持っている人は、からだが冷えても気がつかないことがあるらしい。そしてからだが冷えると鬱状態になってしまう。ぼくはその時思い当たって、気をつけようと思ったのだった。もう忘れてる。学習しないヤツ。

Pleiades

Pleiades風呂から上がって、いつものように夜空を眺めていた。東の空に、プレアデスがぼんやり光っている。あの青白い星団が上がってくると、冬を意識せずにいられない。まだ見えないが、あの右下にはオリオンが控えている。すっかりからだが冷えてしまい、夜中にのどが痛くなって目が覚めた。

記憶の海

店の中にずっと引っ込んでると、忙しい時はいいのだけど、暇なときは、どこか、だれもいないところに出かけたくなる。そんなとき思い浮かべるのが決まって海なのは、想像力が足りないせいだ、と思う。だれもいない砂浜。打ち寄せられたガラス瓶、洗剤の容器、欠けた貝殻、白い骨のような木々。それらが、なかば砂に埋まって風に吹かれている。波打ち際をどこまでも歩く。ぼくは椅子に座って、そんなことを想像する。じっさい、海に行っても、そういうことをやっている。まるで人生に喜びを見出せなかった人のように見えるかもしれない。もちろん、そんなことはない。
—- BGMはカルメン・マキの「記憶の海」でおねがいします —-

本を読む速度

きょうは定休日。昨日に引き続き「海辺のカフカ」を読む。ぼくの本を読む速度はかなり遅い。文中、「君のたてたコーヒーはうまいな」などという会話があると、たちまちコーヒーがほしくなり、数分後、ぼくは台所に立っている。主人公がボディ・トレーニングを始めると、いつの間にか本を伏せ、腹筋運動やら腕立て伏せを一生懸命やっている。そんな按配でグズグズのろのろ読み進んでいるうちに、あたりは薄暗くなっている。椅子を窓に寄せ、しばらくは空の明かりでページをめくっているが、街灯が灯りはじめる頃にはさすがに文字を読むのが辛くなる。この物語の舞台は古い屋敷を改造した私設図書館。当然、そこは白々とした蛍光灯ではなく、古びた白熱電灯が暖かく灯っている。060925_02わが書斎は寝室の隅にあり、天井には明るさを調整できる古風な装飾電灯が下がっている。そこでぼくは、いつもなら省エネのため蛍光灯を点ける所を、その装飾電灯を選んでスイッチを入れる。物語にマッチした雰囲気になったものの、本を読むには暗い。ぼくは壁のコントローラーを回し、明るくする。明るくなったはいいが、ランプシェードに積もったホコリが俄かに気になりだす。ぼくは納戸から脚立を持ち出すと、ガラスシェードと電球をすべて取り外し、洗面所に並べ、黙々と洗いはじめる。夜は更けていく。物語のページは遅々として進まない。とにかくぼくは本を読むのが遅い。

metaphor

お客様から借りた本を読み始めた。村上春樹の「海辺のカフカ」。4年前の本だ。彼の本を読むのは久しぶり。あいかわらず主人公たちは生活感のない、隠喩や直喩をちりばめた奇妙な言葉でしゃべりまくる。しかし、その隠喩や直喩がちょうどテレパシーのように、言葉の理解を省略し、まるで絵を眺めるように情景を伝えてくる。隠喩はイエスキリストが説教する際に好んで用いた手法だ。人を諭す場面でよく使われる。そんなわけで、彼の作品に登場する人物はどいつもこいつも、多かれ少なかれ説教がましい。「海辺のカフカ」では、特に隠喩(メタファー)という言葉が随所に現れ、主要なキーワードのひとつになっている。おかげでぼくは、主人公たちと、執筆中の村上春樹の顔がダブってしょうがなかった。登場人物をふくめ、この作品は僕の(村上春樹の)メタファーなんだぞ、と自ら言い続けてるような気がして。