浅きゆめみし

歯が痛い。正確には歯グキが痛い。そしてスゴク痛い。こんなときフツーの人は薬を飲む。しかしぼくは飲まない。薬は毒だ。歯が痛くて眠れない。夜中に目が覚める。今朝はひどい夢を見た。ひどすぎる。もしここで話したら、ぼくの人格が疑われる。世の中にはぼくより不幸な人はイッパイいる。あたりまえだ。しかしそんなことより歯が痛い。薬はキライだ。病院はもっと嫌いだ。また夜が来た。眠い。でも夢が怖い。

北に走ることもある

昨日は定休日。予定では、笠沙の海辺にある某レストランか、開聞岳麓の唐船峡そうめん流しに行くつもりだった。最初の信号にさしかかって、どちらに行くか迷っているとき、ふと、前日にいらしたお客様との会話を思い出した。ひとりは佐多岬を周遊する特殊な船に乗って海中を眺めたといい、もうひとりは、阿久根の長島でグラスボトムボートに乗り、ガラス越しにイルカと挨拶を交わしたという。イルカとコンニチハ…。しゃれてる。佐多岬は遠いが、長島だったら2時間ちょっとで行ける。ぼくは左折ウインカーを戻し、車を直進させた。入来峠を越え、出水経由で阿久根に入った。窓は全開。春の匂いが気持ちいい。黒の瀬戸大橋を渡り、右折。まずは、視界の開けた場所でコーヒーを飲むことにした。行人岳に到着。なぜか人が多い。年配のオッサンたちが、駐車場の北側の柵に沿って横一列にカメラを並べ、異様な緊張感を醸し出している。いったい何事であろうか。カメラの砲列は北の空をじっと見据えたまま、一触即発の様相を呈している。恐る恐る近寄って見ると、どのカメラにも、ん十万円はする立派な望遠レンズが取り付けられている。そう、このオッサンたちは、UFOが表れるのを今や遅しと待ちわびているのだった。世の中にはいろんな人がいるものである。感心しながらトイレに向かうと、壁に次のような貼り紙がしてあった。
「ツルの北帰行をお待ちの皆さんへ。ほとんどの場合、ツルは午前中に旅立ちます、午後に帰ることはあまりありません」
コーヒーを飲み、一息ついたところで、山を下り、イルカウォッチングをやっていそうな方に車を走らせた。小さな島だから、適当に走っていれば、イルカウォッチング屋に着くだろう、と、軽い気持ちで車を走らせていたが、すぐに迷ってしまった。それらしいところになかなか辿り着かない。どこかで食事をし、そこで聞いてみようということになった。道の駅があったので、そこのレストランで、海鮮丼とあら炊き、そしてアラカブの味噌汁を食べた。時計を見ると、もう2時過ぎ。K銀行に用事があるので、道の駅の看板地図で探すと、ここからはけっこう遠い。しかもそこは先ほど迷って近くまで行ったところだった。戻るのもバカらしいので、阿久根の街のK銀行に行くことにした。というわけで、イルカウォッチングは次の機会に委ねることになったのである。

せっけんの匂い

手作りの石けんをもらって、それを大事に使っている。ぼくは、気に入ったものを大事に使う。その石けんはビロードのように滑らかで、とてもやさしい。そしてぼくの好きな匂いがする。何の香りか分からないのだけど、遠くから、うすいオレンジ色の風が吹いてきたような気分になる。それは生きることが爽やかにみえる不思議な時間。

10年

10年なんて、あっという間だ。
きのう、店に来た同級生と話していてそう思った。
時を過ごすことで増えるものは何。
記憶?
記憶は燃料。想像力はエンジン。
良く燃える燃料と、高性能エンジン。

かもめ

昨夜は、店を閉めたあとカルメン・マキの歌を聞きに行った。場所は天文館のバー。狭いフロアには紫煙がたち込め、30人ほどの客が各々グラスを傾けている。ギター、パーカッション、ヴァイオリン、そして黒尽くめのカルメン・マキ。記憶の海、人魚、かもめ。海に因んだ歌が多い。いつしか、ぼくは港町のバーにいるような気分になっていた。

らくだ

昨日は定休日だった。天気が良ければ南に桜を見に行くつもりだったが、あいにく外は冷たい雨。そこで爆弾製造犯よろしく、昼間っから雨戸を閉ざし、鍵をかけ、暗く密かに映画を見ることにした。見たのはチト古いが、アラビアのロレンス。以前NHK-hvで放映されたのを録画しておいたもの。ほとんどの映画は2時間程度で終わるが、コレは4時間近い大作。いい映画だった。舞台はサハラ砂漠。サハラ砂漠を走るラクダが、うっとりするほどカッコいい。ラクダがこれほど美しい動物だったとは。動物園のラクダも、砂漠に放せばあんなふうに走るのだろうか。

枯れたシュロ

070318_01庭に植えてあったシュロの木が枯れた。ほうっておくとシロアリがやってくるので、引き抜くことにした。スコップで周囲を掘り、根を切っていく。15分くらいで掘出すことができた。問題は、この丸太をどう処分するかだ。いつもなら焚火で派手に燃やすのだけど、煤煙などの問題がありそうなので、のこぎりで小さく切り、生ゴミといっしょに出すことにした。夕方、落ち葉で焚火をしていると、近所の奥さんがやって来て「今夜は庭でバーベキューけ?」と言った。
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かんたんマニュアル

最近のケータイの多機能ぶりには驚くばかりだ。ぼくのケータイにもイロイロ便利な機能が備わっているのだろうが、それらを使いこなすには、あの分厚いマニュアルを読まなくてはならない。びっしり書き込まれた小さな文字。次々に出現するチンプンカンプンなカタカナ単語。早い話が、読む気にならない。そういう人を想定してか、最近の電化製品には厚いマニュアルとは別に「かんたんマニュアル」とかいう薄い説明書が付いている。これはありがたい。(これさえ読まないけど)
070316ケータイ、パソコンをはじめ、複雑な道具には使用マニュアルが付いてくる。マニュアルを読まないことには、その道具の性能を十分に発揮させられないばかりか、壊しかねない。さて、ヒトにとって一番大切な道具はなんだろう。それは脳だと思う。脳は物質であり、目的を遂行するために論理的に組み立てられたハードウェアだ。ただし脳が稼動することで副次的に心が生じるのか、心という運転手を収容するために脳があるのかは分からない。そもそもその心も、即ち喜びや悲しみといった感情さえも、生命維持、種族繁栄という目的遂行にかかる、高度な判断を行う機能の一つでしかない、とも言われている。でも、そんなことはどうでもいい。われ思う、ゆえにわれあり、だ。そう思うしかない。脱線したけど、脳を一つの道具として捉えた場合、その使用マニュアルを読んでおくことはとても大切だと思う。先日F少年から借りた、池谷裕二著「脳はなにかと言い訳する」は、脳の使用マニュアル的な記事がてんこ盛りだ。たとえば、こんなことが書いてある。「努力しないで記憶力を高めるには」。一見、眉唾に思えるが、書いてあるとおりに実行すれば、ほんとに努力せずに記憶力を高めることができる。その理屈も説明してあるが、難しくないから、さっと読める。まさに、脳の「かんたんマニュアル」だ。