火星は今日も曇りだった

気がついたらぼくはシャワーを浴びていた。そうだった、昨夜はKさんちで花見をしたのだ。ぼくはマタイ受難曲を聞きながら酒を飲んでいた。ぼくは何をしゃべっていたのだろう。あまりしゃべらなかったような気もする。ぼくは酒を飲みながら、第二次世界大戦前夜に録音されたというマタイ受難曲を聞いていた。家に帰ったぼくは階段を上り、ベッドに倒れた。気がつくとぼくはシャワーを浴びていた。窓の外は明るかった。でも曇っている。朝だった。ぼくはシャワーを浴びながら思った。火星は今日も曇っている。シャワーに打たれているとだんだん変な気分になってきた。今にも脱皮しそうだ。ぼくはシャワーを止め、脱皮するのを待っていたが、何も起きなかった。

ある日

裏門のプールの前でぼくは待っていた。そろそろ来る、と思ったとき、小学校の裏にある墓地の細い道を下ってくるものが見えた。木々の間から土煙が上がっている。墓地を下ってくる何かは、ぼくにとって、あまりよいものでない。ぼくは古い約束を憶えていた。逃げようとは思わなかった。やがて現われたのは、この世のものではなかった。それがぼくの前に立ったとき、あたりは急に暗くなった。思わず空を見たが、晴れ渡った空には雲ひとつなかった。目の前のそれは何をするでもなく巻き戻されるように進路を後退し始めた。ぼくはあとをついて歩き始めた。ランドセルを背負った子供たちが歩いて来る中を通り抜け、裏門を出た。学校は高い石の塀で囲まれていて、塀の外は薄暗い砂利道だった。砂利道を南に下りたところに背丈の二倍ほどの石積みの柱があり、風を集めてさびしい音を立てていた。そこを西に折れ、山に向かう細い道に入った。坂に沿って四角い石が並んでいる。石には文字が刻まれており、どれも古く小さく、傾いていていた。曲がりくねった道がまっすぐになり、あたりが開け、腐った花の臭いがする風が止んだ頃、ぼくは遠くに小高い丘があるのを見た。そこだけが周囲より明るく、宙に浮かんでいるように見えた。

二人で仕事

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店で一人で仕事をしていると、お客さんが何人いても、店で仕事をしているのは、ぼくただ一人だ。あたりまえだけど。今日は某雑誌のK氏が取材に来てくれた。すると、店の中で仕事をしているのは二人になった。ぼくは彼の記事が、読者にとって、おもしろくなるように努力する。もちろん、彼も同じだ。同じ目的に向かって仕事をする二人。二時間の間だったけど、とても楽しかった。

メタボリックシンドローム予防は

昨日はエイプリルフールだった。毎年のことだけど、この日はけっこうダレる。まず第一に、ぼくの周りにはぼくを引っ掛けようとする連中がウヨウヨしている。以前ぼくにだまされた友人たちが逆襲を掛けてくるのだ。電話が鳴るたびにびくびくする。次に、ネットを徘徊していると、ウソの記事が待ち構えている。意外な記事に出くわしたとき、「どうせウソだろう」と思ってると本当だったりするのが困る。
さて、昨日、いつものようにネットを巡回していると、某ブログにおもしろい記事が上がっていた。それは、メタボリックシンドローム予防は「デブ狩り」の危険をはらんでいる、というものだ。ぼくはその問題にはさほど関心がなかったのだけど、その記事にあったyoutubeのビデオがとてもユニークだったので、ここに貼り付けてみたというわけ。

ある決心

朝起きた瞬間から、ぼくはとても悲しかった。どうしてぼくは嘘つきなのだろう。ぼくはだれにでも平気で嘘をつく。このブログに書いてることだって、ぜんぶ嘘だ。するとあなたはこういうだろう。なんだ、そんなこと、いわなくたって分かっていたよ。そうか、あなたはそこまでいうのか。冷たい人だ。ああ、もうだめだ。もうこの社会では生きていけそうにない。ぼくは醜いアヒルの子といわれつつも本当は白鳥なんだと信じていたニワトリのように悲しい。でも、希望を捨てたわけじゃない。まだ間に合うかもしれない。ぼくは今、心に決めた。もう嘘をつくのはやめよう。

ミス オレ

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今日は定休日。遠くに行きたかったけど、しなくちゃならないことがイロイロあって行けなかった。たぶん、今はそういう時期なのだ。今日、オレはミスをした。あまりに初歩的なミスで、ひどい自己嫌悪に陥った。こんなとき、部屋でじっとしていると、オレは病的に自分を責める。それが分かってたので、さっさと服を着替え、庭に出て土いじりを始めた。先週に引き続き、増えた草花の株分けだ。草花をいじりながら、オレは自分とミスの関係について冷静に考えてみた。オレはミスがキライだ。だからミスをすると徹底して自分を責める。と、そこでオレはハッとした。他人に対してもそれをやってはいないか。ああ、やっている。身近な人に。無意識に。そして許さない。がまんして顔に出さないだけだ。じゃあ、どうすればいい。オレは実利的な行動を選択するタイプだ。まず、自分をあまり責めないこと、と思った。自分を責める回路ができてるから、他人をも責めるのだろう。自分を感情的に責めるのでなく、ミスを客観的に観察し、繰り返さないための具体策を考える、という合理的な処理回路を意識的に作る必要がありそうだ。自分のミスを責める自然な感情は、ミスの記憶を優先的に固定させるための動物的知恵だろうが、同じミスを繰り返さないために必要とはいえ、行き過ぎると害がある。なーんちって。今日はなんだか青臭いこと書いちゃったわ。うふ。
ところで最近、自分のことをボクというより、オレ、というほうが好きになってきたみたい。ぼくって、移り気なのね。

人の心を持ったサルは人間か

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「むかしね、テレビの日曜洋画劇場でこんな映画があったんだけど、だれに聞いても分かんなくて、見たくても見ることができないんですよ」お客さんはカウンターにカップを置くと、残念そうに首を振った。彼は天気のよい休日、手入れの行き届いた古いバイクで、一人、山道を走り、その帰りにコーヒーを買いにくる。「車は海へ走るのがいいですが、バイクは山ですよ」彼の美学ではそうなってるらしかった。彼が帰ったあと、ぼくは彼から聞いた映画の内容をもとにネットで検索してみた。案外簡単に見つかった。ジャージ・コジンスキー原作「Being There」(邦題 チャンス)。主演ピーター・セラーズ。翌日、店にいらした映画通の常連さんに、こんな映画があるらしいですよ、と話すと、早速ツタヤで借りてきてくださった。観てみるとなかなかおもしろい。この映画、現代社会を風刺したユーモアたっぷりのコメディとして十分楽しむことができる。でも、一たび主人公の立場に立って、その深い孤独に目をやると、この作品の持つ別な面が見えてくる。その孤独は、主人公が知能発達不良とも受け取れる「純粋無垢な心」を持ち続けていることに由来する孤立に見える。純粋無垢な心とはなんだろう。聖書にある「神は自分に似せて人を作られた」時点における「穢れない心」だろうか。もしそうなら、主人公はこの現代社会にあって神そっくりのまま振舞っているのだ。ぼくの解釈は飛躍しすぎかもしれない。でも、この作品をそういう視点で見ると、奇妙なラストシーンを含め、いくつかの違和感が解消される。聖書の記述によればイエスを真に理解するものはついぞ現われない。というより、定義的に人はだれも神を理解できない。しかしイエスは言う。「だれでも私につまずかないものは幸いです」。イエスは人として生まれたが、人の中にあって孤独だった。さて、翻って、映画チャンス。この映画の鑑賞者は主人公チャンスをどのように見るだろう。知能レベルの低い子供のような男と見るか、それともそこに「神に似せて作られた者」を見るのか。作者はぼくらにこう言っているように思える。
「だれでも彼につまずかないものは幸いです」

机のぼく

よくあることなんだが…
なにか、ずっと考えてた。でも、なにを考えてたのか、よくわからない。ふと気づいたら、ぼくは机の前に座っていた。ぼくの中にいるもうひとりのぼくが、ぼくを乗っ取って考え込んでいる。今まで何を考えていたのか教えてくれ。ぼくの時間を無駄に使うのはやめて欲しい。

夜道

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夜は暗い。暗い道をカメラを持って歩き回ると怪しまれる。たぶん、既にぼくは怪しまれている。そのうち誰かが通報するかもしれない。しかし、カメラを持って夜の道を歩くのは楽しい。むかしのカメラは、夜はフラッシュを焚かないと写らなかった。でも、今のカメラはフラッシュを焚かなくてもよく写る。中学生のころ、ぼくは双眼鏡を首にぶら下げて夜道を歩いていた。星を見たくて、天気のよい夜は暗い場所を求め、近くの山や、造成地によく歩いた。しばしば二人連れの体格の良い男に呼び止められた。どこへ行くんだね。ぼくは答えた。天体観測です。そうか、気をつけていきなさい。何度もそういうことがあったが、深く追求されたことは一度もなかった。いい時代だった。