「行ってきます」
息子の声で目が覚めた。
「いってらっしゃい」
寝ぼけまなこで時計を見ると、10時を指していた。休みとはいえ寝坊である。それにしても、なんで今頃学校に行くんだ?…そうだった、修学旅行だ。息子は修学旅行に行くといっていた。お別れの挨拶をしなければと思ったが、寒くて布団から出られなかった。旅行は一週間、行き先はパリだそうだ。こんなに寒いのにパリ。バリなら暖かくて良かったのに。ヨッパライ某が用事で出かけるというので、ぼくは家でじっとしていた。とりあえず、ラベルのボレロをかけながら茶碗を洗った。CDが終わると、部屋はシーンとなった。ぼくはテレビをまったく見ないので、音楽をかけない限り部屋は静かだ。こういう寒い日は、柱時計のコッチコッチ、火鉢にかけた南部鉄瓶のしゅうしゅうという音が聞きたくなるな。
Hello!
夜、パソコンを開いて仕事をしていたら、突然画面が青くなり、謎の英文が現れた。
Hello!
ぼくは映画マトリクスを思い出した。不思議の世界からお呼びがかかったのである。と、いう展開になるのはマンガや映画の中だけだ。Hello!ではなく、Error!だったからだ。それはメモリーがどうしたのディスプレィドライバーがこうしたのと数学の先生が生徒を諭すようなウルサイ文章だった。以降、電源は入るものの、起動しなくなった。早い話が、ぼくのVAIOは壊れたのだ。とっさに思ったのは、保証期間は切れてないか、だった。もちろん、切れていた。2年以上使っているのだ。とりあえずマニュアルを引っ張り出してリセットボタンを押したり、電源を抜いて放置したり、いろいろやってみたがだめだった。なんてことだ、可愛い女性に対してそうするように、大事に扱ってやったのに。ぼくはVAIOに対して腹が立ってきた。しかし、ぼくはもう大人だった。彼女は病気なのだ。原因はなんだろう。そういえばここのところ空気が乾燥している。静電気の帯電でメモリーまわりにトラブルが起きてるかもしれない。彼女はデリケートなのだ。ぼくは慎重に裏返し、フタを開け、メモリーをいったん取り外して再セット、フタを閉じた。スイッチオン。
Hello!
彼女は再びぼくにほほえんだ。
男は幻を追う
歩いても歩いても、目の前に現れてくるのは白い砂ばかり。ぼくは太陽がじりじり照りつける砂漠を歩き続けた。ふと風が止まり、見上げると地平線の彼方に瑞々しい緑のヤシが揺らいでいる。
ああ、やっとたどり着いた。
そう思ったのも束の間、すでにそこには何もない。幻だった。あるのは、あいかわらず、どこまでも続く白い砂。
今日は土曜日。珈琲と音楽好きの仲間がK氏宅に集まった。明かりを落とした薄暗い部屋の両隅で、その装置はかすかな唸りを上げてスタンバイしていた。
突然、人々のざわめきの中にトランペットの乾いた音が立ち上がった。部屋は一瞬にして無限大に広がり、右手前方7、8メートルのところにトランペットを口にしたマイルスが立った。曲は「Time After Time」。
写真は、今回の鑑賞会の主役、「グラスマスター」という真空管アンプ。優れたオーディオ装置は録音現場の音場をリアルに再生する。ぼくはそこにマイルスの幻を見た。幻を追い続けて実体に至ることはないが、幻を追わないと実体の美しさが見えてこない、ような気がしたK氏宅での夜。
なお、写真はK氏のHPから拝借しました。
幸福の王子
幸福の王子っていう童話があるんですが、あれは教科書に載ってたんでしょうか。
さっき、風呂で頭を洗ってたら、なぜかその幸福の王子を思い出した。きっと、ここのところ寒いからでしょうね。
ぼくはあの物語に出てくるツバメがかわいそうでしょうがない。
髪を洗いながら、また悲しくなった。いい年をしてバカみたい。
確か、最後は神様が二つの心を天国に持って行ったんだと思うけど。
子供のときに読んだ本の感動は尾を引くよね。
浅煎りマンデリン
某番組の影響でスポットライトを浴びているコーヒーがある。
それはマンデリン。ただし、浅く煎った、酸味のあるタイプ。
一般に、コーヒー豆は深く煎ると、酸味が影をひそめ、苦味に偏ったコーヒーになる。例えばスターバックスのコーヒーがそれで、ここでは深煎りタイプしか扱ってない。
昨日、常連のお客様が、いつものように深煎りコーヒーのみ数種類注文された。彼女は深煎りコーヒーが好みである。
「深煎りコーヒーが好きなお客さんにはナイショにしてるんですが、じつは、こんな豆があるんですよ」
ぼくは豆を袋に詰めながら浅煎りマンデリンの話をはじめた。
「これを飲んで、しばらくすると背中のあたりがジワーッと熱くなってくるんです。脂肪を燃焼する筋肉が背中にあるらしいんですね。ダイエットに効くそうです」
「へぇ~そうなんですか」彼女は不思議そうにうなずいた。
「でも、すっぱいです。深煎りが好きな方はやめたほうがいいですよ」
今日、再び彼女はやってきた。
「どうしたんですか、昨日のは、もう飲んじゃったんですか?」
「あれ、あるんですか?」
「え?」ぼくは何のことか分からなかった。
「酸っぱいマンデリン」
彼女は酸っぱいマンデリンを200グラム買って帰られた。
ドミニカのロバ
散髪
髪を切りたくてしょうがないのに、定休日を月曜日と第三日曜にしたせいで、なかなか床屋にいけない。女の人は、髪を切ったり伸ばしたり、髪型を変えたりして遊べるからうらやましい。むかし、天文館にミスティという小さなバーがあって、会社の後輩とよく飲みに行った。カウンターで酒を飲みながら話すことといえば、車と女のことばかり。ぼくは力説した。
「となりの座席に乗せる女の子は、髪が長くなくてはいけない」
窓を開けて走るとき、髪が乱れるのがセクシーなんだ、というのがその理由だった。今思えば、かなり屈折している。そしてその後輩は長い髪が似合う女の子と結婚した。そして今もドライブに明け暮れている。
湯気の向こう
目を覚ますと、パンの焼けるいい匂いがした。
そうだ、昨夜はパン焼き機のタイマーをセットして寝たのだった。お客さんから手作りのレバーペーストをもらったので、ぼくはパンを作ることにしたのだ。パンの焼ける匂いは幸せの匂い。休みの朝はこうでなくっちゃね。熱いコーヒーを飲んで、ドライブに出かける。予報では、今日は飛び切り寒い一日、とのことだった。こういう日は冷たい雨に打たれながら熱い温泉にゆったり浸かるのがキモチイイ。そこで、指宿郊外にある、外湯のある温泉に行くことにした。車はみぞれ混じりの雨の中を走る。BGMはビーチボーイズ風に歌う山下達郎。古い歌だけど「夏への扉」が聞きたかった。温泉に着いた。車から出ると硫黄の臭いがあたりに漂っている。外湯は湯気に煙ってよく見えない。湯気の向こうに何か期待してしまうのは変なクセ。
窓の猫
朝、目覚めると自分が不機嫌であることに気づいた。
最近、寝覚めが悪い。きっと悪い夢を見ているのだろう。
窓を開ける。冷たい風が吹き込んでくるが、ぼくは毎朝窓を開けないと気がすまない。洗面所で顔を洗っていると、先ほど開けた寝室の窓からネコの声がする。窓の開く音を聞きつけたネコがやってきたのだ。しかし、網戸があるから入って来れない。はずだった。見ると、わずかに開いた網戸の隙間から今まさに室内に飛び込もうとしている。目と目が合った瞬間ネコはジャンプした。が、後足がカーテンに引っかかり、床に激突。
ぼくはあっけにとられた。
気がつくと、ぼくの不機嫌はすっかり消えていた。
眠れない夜が明けると
いい年こいて朝からオフコースをかけている。
オマエなぁ、求めすぎだよ、女に。そんなの不可能なんだよ、オマエ。ぼくはいつものように彼の歌詞に文句をつけながらコーヒーを飲む。小田クン、キミは思い違いをしている。いや、狂ってる。かわいそうに。
相手が女である限り狂ってるのが正常な気もする土曜の朝。