薔薇の匂い

帰りに寄ったお客様の家。日本家屋の広い玄関。暗い白熱灯の明かり。廊下の隅に薔薇が数十本活けてあった。お客様は珈琲の代金を取りに奥の部屋へと消えた。薔薇が仄かに匂う。あっ、と思った。ぼくは靴をはいたまま四つんばいで薔薇に向かい、薔薇に顔を突っこんでいた。我に返り、急いで土間に戻ると、ちょうどそこに奥さんが戻ってきた。危機一髪だった。だが、もし何かあってもぼくに罪はない。もちろん美しすぎる薔薇が悪い。

20

個人情報を公開するのには抵抗があるが、実をいうと、数日前、風呂上りに体重計にのってみたら、体脂肪率が20と出た。これがはたしてぼくにとって良い数字なのかは分からない。しかし、20という数字は、なんとなく気に入らない。なんか、かっこ悪い気がする。とりあえず、19を目指そうと思う。

ポケットの砂

061113_01今日は日本晴れのはずだった。しかし、窓をあけ、眠い目をこすって見上げた空は、遠い山の向こうまで曇っていた。雲間から覗いた小さな青空が、申し訳なさそうだった。
「ふっ、いいってことよ。人生なんて、そんなもの」
今日は定休日。ぼくはドライブに出かけた。たいてい、はっきりとした目的無しに出かけるのだけど、きょうは、あの、東シナ海に面したレストランの様子が気になって出かけたのだった。前回行ったとき、店のドアは開いたままだったが、店の中はがらんとしてだれもいなかった。昼食をとって、亀ヶ丘の展望所から東シナ海を見下ろした。北から吹く風の中で、ポットの熱いコーヒーを飲んだ。風に吹かれていると、言葉にあらわせない不思議な感動がやってきた。それは大いなる者と深い意思の疎通がなされたような、畏れに似た喜ばしい気持ちだった。自分の卑小さに気づくことの安心とでもいおうか。例のレストランに行ってみると、ドアは、やはりわずかに開いたままだった。だれもいなかった。浜砂に座り、ぼんやりしていた。波の音。波の音。その単調な繰り返しは複雑な模様を織り成す機織。家に帰った夜、ポケットに手を突っこんだ時、思いがけず触れた砂の感触に、海を吹く風の音を聞いた。

コワイ映画

明日は休みなので、夕食後、映画を見ることにした。
息子も見るというので、二人で見始めた。
その映画は「SAW」
見始めて15分後。
「この手はダメ、バイバイ」
と言って、ぼくは部屋を抜け出した。
その5分後、高3の息子も抜け出してきた。

近くて遠い

どこまでも歩いていったら、どこに着くのだろう。
そんなことを考えていたこどもの頃。
空が青い。青い空。とても遠い空。
髪が青く染まるくらい空を見つめ。
とけて空ににじんだアイスクリーム。

新しいケータイ

Sa_so5ケータイを新機種に換えることにした。これまでmovaを使ってたんだけど、FOMAにした。movaを使い続けていたワケは、単にサービスエリアが広いから。ぼくはドライブが好きなので、ヘンピなところでも、ピッ、とアンテナが立って欲しい。最近知ったのだけど、今ではFOMAのサービスエリアもそうとう広がっているようだ。そこで今回、FOMAをチョイスすることにした。カタログを見ると、その機能の多さにビックリ。うんざりするほどの多機能ぶりだ。カタログを見ているうちに頭痛が痛くなってきた。機能の少ない機種を探すと「らくらくホン」という、黄昏族仕様の製品に行き着く。今使っているケータイは、音楽が再生できるのだけど、4時間もしないうちに電池が切れる。情けない。ほとんど使い物にならない。Sa_so94カタログをめくっていると、P903iという機種が目に留まった。70時間ぶっ通しで音楽を再生できるという。お、これなら使えるぞ、と思い、それを注文することにした。家に帰り、ネットでケータイの新機種を眺めていたら、SO903iという機種が俄かに気になりだした。余計な機能がないのがいいし、1ギガのメモリを内蔵してる。デザインも、セッケン箱みたいでキャワイイ。音楽も50時間再生できるという。さっそくNTTの知人に連絡し、こちらに変更してもらった。ただし、この機種はまだ市場に出てないそうだ。

黄色い炎の

初めてランプを買ったのは中学2年の時だった。なんに使うかといえば、洞窟や廃屋の探検、深夜の天体観測に使うのだった。センダンは双葉より芳し、というが、その頃既にぼくは暗い所が好きだったのである。そのランプは日本製で性能がよかった。というのは、こぞってマネをした友人たちのランプは中国製だったが、炎の形が悪く、暗かったのである。ぼくは一人優越感に浸った。幸せだった。ぼくは夜毎そのランプに火を灯し、部屋の明かりを消して音楽を聞いた。今思えば、ずいぶんシャレたマネをしていたものである。電気で灯る明かりは安全で便利だけど、生命感がないんだな。都市化とは管理できないものを排除していくことだろうけど、命(タマシイ)を排除したらなんもならんよね。人は生きるために生きてるんじゃないから。

架空の記憶

数名のお客様の相手をしてる時に電話が鳴った。
「いつもの豆を各1キロ、明日取りにきます」
相手はそういった。市内の喫茶店からだった。どうしたことか、ぼくはその注文をコロリと忘れてしまったのだった。それを思い出したのは、深夜、音楽を聞き終えて、プレーヤーからCDを取り出した時だった。ぼくは冷や汗が出た。あわててメモを取り、仕事着のポケットに入れた。明日はいつもより早く出勤し、余計に豆を焼かなくてはならない。翌朝、出勤して真っ先に電話のメモを調べた。注文を受けた形跡がない。妙だな、と思った。書いたメモを読み忘れることはあるが、メモを書き忘れることはないからだ。とりあえずぼくは注文どおりの豆をそろえ、お客様を待った。しかし、お客様はついに現れず、夜が来て閉店時間となった。これはどういうことだろう。昨日の電話は幻だったのか。ぼくは架空の記憶を思い出して、せっせと豆を焼いたというのか。ぼくはその喫茶店に電話をした。だれも出ない。閉店時間を過ぎたらしい。ぼくは不安になった。変な話、最近ぼくは奇妙な幻を見ることがある。そうだ、ぼくは壊れはじめているのだ。そう納得するに足る根拠がいつの間にか出揃っているのに気づき、ぼくは愕然とした。とにかく明日の朝一番で喫茶店に電話をしなくては。

小春日和

いい天気が続く。先ほどいらしたお客様は、いまから木市に行くとおっしゃってた。春と秋、川向こうの広場では恒例の植木市をやっている。子供の頃は、小銭を握ってよく行ったものだった。子供だから植木にはサッパリ興味がなく、めあては金魚、カメ、ヒヨコだった。カメは500円、ヒヨコは一匹20円だったと思う。カメや金魚を飼うのは比較的たやすい。初心者でもまずは大丈夫。一方、ヒヨコはけっこう難度が高く、マニア向けの仕様といえた。まず、すぐ死ぬ。めっぽう寒さにヨワイ。ぼくは何匹か死なせた経験がある。死んだヒヨコを、泣きながら一晩中暖めたのを憶えている。たまごっちが死んで泣く子がいるが、感情の出所は同じだろう。しかし、リセットが効かないぶん、ヒヨコの悲しみは切実であった。ヒヨコを買って帰ると、例外なく親にしかられた。ヒヨコは金魚やカメとは違う。金魚鉢では飼えない。すぐに大きくなり、いずれ小屋が要る。それがオスだった場合は悲惨だ。朝暗いうちから人の都合など省みず、けたたましい大音量で鳴く。鳴くなと叫んでも鳴きまくる。はなはだ近所迷惑な動物に変化するのだ。大人はそれを知っているからヒヨコを目の敵にする。かくいうぼくだって、ご多分に漏れない。
ところでぼくは、なにを言いたかったのだろう。
そうだ、ここ数年、木市に行ってないが、今もヒヨコは売っているのだろうか。

目覚まし時計

「おまえ、いいかげん、目を覚ましたらどうだ」
実現不可能なことをいつまでも追い続けていると、親友からこういうアリガタイ忠言を頂くことになる。
言うまでもないが、この場合の「目を覚ます」は睡眠から覚めることではない。ぼくもそうだが、ほとんどの人が、上記の意味では自分は目覚めている、と信じているはずだ。しかしどうだろう。自分がどこから来てどこに行くか知ってる人はいない。自分が何者なのかも分からない。そんなことを考える時、はたして自分は見るべきものが見え、聞こえるべきものが聞こえているのだろうかと訝ってしまう。もしや眠ってるのでは?と考えてしまう。こんなことを書くと、さっそく、「おまえ、なにを寝ぼけてるんだ、目を覚ませ」という声が聞こえてくる。