誘われてフラメンコ

070421いい天気だ。春らしさが戻ってきた。半袖でいらっしゃる女性のお客様もいる。sexy. 土曜の午後は案外ヒマだ。ぼくは駐車場に出て喫茶店の花壇を眺めていた。甘い匂いがあたりに漂っている。見上げると、入り口の支柱に沿ってジャスミンの花が咲いている。となりにも青と白の花が咲き、これもまた夜の香水のように甘ったるい匂いを放っている。
キミたちはヒマそうにぶらぶらしているボクを誘っているのか?
なんだかフラフラする土曜の午後。
(ところで、この写真の花の名前、なんだっけ)

ココロの冬

やっと暖かくなった。ここ数日の天気はいったい何だったのだろう。ぼくはまるで白夜の薄明の下、シベリアのツンドラ地帯を背を丸め、あてどもなく彷徨う放浪者のようだった。あまりの寒さに、もう少しでぼくは野垂れ死にするところだったのである。ぼくにとって寒さは呪いである。寒いとぼくの心は、柔らかくもその実ヒヤリと冷たい、ロッテ雪見大福のように芯まで冷え込んでしまうのだ。そう、ぼくは呪われているのかもしれなかった。しかし、いわれのない呪いはやってこない。ぼくにかかった呪いとは…。原因が分かれば呪縛を解く手がかりになる。白雪姫の呪いは毒リンゴ。王子のキスで解ける。美女と野獣も似たようなものだ。それはハリウッド的、単純なハッピーエンドである。ぼくはフランス映画が好きだ、というフリをするのが好きだが、フランス映画は概してハッピーエンドにならない。どこか難解で複雑、まるで不幸にこそ人生の奥義が隠されているといわんばかりに暗くひねくれ、ハッピーエンドは程度が低いとでも言いたげなイヤな終わり方をする。場合が多い。一方ぼくには複雑でわかりにくいものを高級とみなし、好もうとする逆行的傾向がある。自虐的なのだ。そうだ、それが呪いなのだ。ぼくは冬を憎みつつ、その奥底では愛しているのかもしれなかった。

天然の味

 彼は、あの約束を忘れてはいなかった…
夕方、友人Fが、天然の牡蠣をビニール袋に詰めて持ってきた。仕事をサボって取ってきたのだという。天然の牡蠣は潮が引いた後の岩に張り付いているので、ハンマーなどで引っぱたいて外す。さっそくビニール袋から一個取り出し、水で洗って食べてみた。う、うめぇ。天然のせいか、身がきゅっ、と締まっている。もう一個食べてみた。う、う、う、めぇぇ…。ちなみに、ぼくはよく牡蠣に当たる。ふつう、一度牡蠣に当たると二度と牡蠣には近づかないといわれている。それほど牡蠣の当たり方はキビシイ。それでもぼくは食べ続ける。店からの帰り道はルンルン気分であった。今夜の夕食はカキフライ。ぼくの大好物はカキフライ。
ぼくは揚げたての牡蠣にレモンをじゅっと絞ってかぶりついた。
・・・・
わーっぜうめかったど

ぶるぶる

D_top_01
寒さでテンションが急降下。震えてます。誕生日ということで、気分転換にデスクトップの背景を変えてみました。

宇宙の彼方へ

Boston_0
BOSTON。このバンドをご存知の方はもう少ないかもしれない。ファーストアルバム、幻想飛行/ボストンは、すばらしいアルバムだ。More than a feeling(宇宙の彼方へ)をはじめ、どの曲も未だ、まったく古臭さを感じさせない(リンク先で試聴できます)。このアルバムが発表された当時、ぼくは19才だった。 ジャケットをよく見ると分かるのだが、炎を吹き出して飛行しているのはギター型宇宙船。あのころのぼくは、宇宙旅行に憧れていた。あれから何年経ったのだろう。宇宙に飛び立つ夢はもはや消えてしまったのだろうか。
昨夜はOさん夫妻をわが家にお招きし、沖縄料理を食べながら楽しいひと時を過ごした。Cake_01ぼくは奥様手作りのステキな誕生ケーキをいただき、キャンドルの炎を一息で吹き消した。
その夜、ぼくはケーキ型宇宙船に乗って、宇宙の彼方に飛び立つ夢を見た。炎の数が多いほど、遠くに飛べるに違いなかった。

ぼくの夏

明るい朝、かがやくアスファルト。
夏を意識せずにいられない。
なにか聞こえる。なつかしい音。
久しぶりに聞いた。ぼくのエンジン。
何年も眠っていた、ぼくのエンジン。
ギヤをローにいれ、クラッチをつなぐ。
動いた。壊れてなかった。
動き始めた、走るためのエンジン。

検索ワード

ここ数日googleからのアクセスが急増している。なぜか。ある検索ワードで当ブログが引っかかるせいである。その単語は「おそそ」。試しに「おそそ」で検索をかけると、トップページに「生活の記録」の文字が浮上する。原因は数日前の記事。当ブログにリンクしてもらっている「Bura Bura」のrogiさんは「ブラジャー」でアクセスしてくる人が多いと嘆いていたが、なぜかぼくは素直にうれしい。

1+1=

Singanヒマだったので、F少年から借りた吉本隆明著「真贋」を読んだ。読み始めてすぐに強い違和感が立ち上がった。論理的な文章なのに、1+1が2にならないような気持ち悪さが常につきまとう。ぼくの思考回路をスムースに流れてくれない。居心地が悪くてしょうがない。3分の1ほど読んだところでヤーメタ、と投げだした。しかし、何か深いところで引っかかるものがある。ふとセレンディピティという言葉が浮かんだ。これは脳科学者、茂木健一郎が時々取り上げる概念で、偶然やってくる幸運を手に入れる能力のこと。偶然やってくるわけだから、手に入れる準備など出来ない。しかし、その能力を高めることは可能だという。たとえば「イヤなやつ」と感じた相手と付きあってみるのもその一つなんだそうだ。つまり、相手が自分にない物を持っているが故に拒否反応が起こる場合もある、というのである。ぼくは今回の吉本隆明著「真贋」にそれがあったような気がする。ぼくは口では「1+1は2にならなくても不思議じゃない、とか世界はグレーゾーンで出来ている」などと得意になって言うが、本音は違う。1+1が2にならないと、ひどく不安だ。この著書の作者あとがきに次のような文がある。(以下抜粋)
・・・たとえばルカーチのような哲学者は逆に現実のほうを定義に合わせて、修正したり、細説したりする。まさかと思うかもしれないが、無意識のうちに理念の重量と現実の重量が逆倒してしまっている・・・
これを読んで納得がいった。ぼくにはそういうところがある。実は、ウスウスその問題に気づいていて、ジタバタしていたのだ。しかし、今わかった。その手法さえ逆倒していたことに。

あの鐘を鳴らすのは

ぼくは信号待ちをしていた。ふとルームミラーに目をやると、後続の車の若い姉ちゃんが、首をふりふり、口をパクパクさせている。なにか歌っている様子だ。実にアホっぽい。だが気持ちはわかる。というのも、ぼくもつい、好きな歌がかかると、歌いはしないがボリュームをグッと上げてしまうからだ。先日も某国営ラジオで和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」がかかったとき、車は信号待ちで止まっているにもかかわらず、窓を開けたまま大音量で鳴らしてしまった。この時のぼくの心理は、つまりこうである。
「ホレみんな聞け、いい歌がかかったぞ、いっしょに感動しようではないか」
言うまでもなく余計なお世話である。だれも朝から和田アキ子の太い声など聞きたいとは思っていないのだ。この心理は「走る魚屋さん」も同じようである。その移動販売車は当店の前に毎朝10時半にやってくる。そして聞きたくもないねっとりした演歌を大音量で鳴らす。夜はまあいい。でも朝鳴らすのはやめて欲しい。

口癖

さっき、某TV局から電話があった。
「最近、コーヒー焙煎店が増えてるようですが、どういった理由が考えられるんでしょうか」
う~ん、めんどうなこと聞くなぁ。わかんないなぁ。
コレといった理由が浮かんでこないので、思いつくまま適当なことをしゃべっていると
「今週の金曜日の番組で、そういう特集をするんです。あとで伺ってもいいですか?」
いいよ、ヒマだし。
というわけで、あとで取材が来ることになった。
ところで、つい、「ヒマだし」と言ってしまうクセが直らない。直そうと思うんだけど、なおらない。