第365話

ぼくは自分のイメージ作りにけっこう注意を払うほうである。
たとえば「ぼくは勤勉を絵に描いたような男である」と、仮にここで述べても、見よ、だれ一人異論を唱えるものはない。なぜなら
「このブログ、毎日欠かさず書かれているみたいだわ」
という、誰の目にも明らかな事実がここにあるからだ。
毎日ブログを書くだけで「勤勉な人」というレッテルを貼るには、いささか抵抗があるという向きもあるかもしれない。ヒマを持て余しているだけじゃないか、というわけだ。そのとおりである。しかし心配には及ばない。つまり、これは当ブログが醸し出す固有のムードに負うところが大きいのだが、ここに100円ショップで購入した一見ブランド品に見えるペンがあったとしよう。ぼくが持つと、だれもがそれをモンブランと信じて疑わない。それと同じことなのである。
このブログが今日で丸一年経ったことに気づいた。totto*さんのブログのおかげである。どうやら、ぼくが勤勉である、というイメージも、つつがなく定着したようにみえる。どうでもよさそうなネタで埋めているだけじゃないか、といわれれば、そのとおりなのであるが。

復活

ぎっくり腰もほぼ完治し、しばらく休んでいた日課、腕立て伏せ25回、腹筋運動25回を再開した。ところで、ふだんはほとんど会話を交わすことのないお客様から「腰の具合はどうですか?」と声をかけられ、幾度となくギョッとした。このブログを読んでいる人は意外と多いようだ。ウカツな事は書けない。ウカツなことしか書いてないけど。
さて、腕立て伏せと腹筋運動を毎日欠かさず行うのには、清く正しい理由がある。それは「ある夏の日」のためである。ぼくは海で泳ぐのが好きなのだけど、海パンのゴムの上にハラが載っている図だけは避けたい。そういうシルエットは海に似合わない。これは切ない美学の問題である。

プールサイド

Alongvacation_1ダスティンホフマン主演の映画、「卒業」。主人公の家にはプールがあった。ぼくはこの映画を見たとき「アメリカじゃどこの家庭にもプールがあるんだ」と思った。しかし、わが家にはなかった。プールのある生活。いいね。
なんとかならんもんかね。

ノアの方舟

ヒマだったのでF氏から借りているベストセラー2冊のうち梅田望夫著「ウェブ進化論」を読んだ。Web2.0、「ネットのあちら側」のことを書いてあるのだけど、実に興味深い内容だった。読み進んでいくうちに、グーグルがネットでやっていること、目指しているものが、いかに革命的なことなのかが次第に解ってきて、読んでてゾクゾクさせられた。グーグルの秀才連中がたくらんでいるのは、バベルの塔の再建ではないかという気さえした。人々が天に達する高塔を築き始めたとき、神は人間の僭越を憎んで人々の言葉を通じないようにした。言葉が通じなくなった人々は世界に散っていった。これがいわゆるバベルの塔である。ネットの世界には国境はもとより、垣根がない。衆知を集めれば個では成し得ないことが可能だ。世界中の衆知を瞬時に集め、精製し、秩序を見つけ、あるいは付与する。これはバベルの塔の建造を髣髴させる。グーグルはそれを目指しているように見える。もしそうなら、ノアの方舟まがいの計画も同時進行してるかもしれない。バベルの塔の完成は、ノアの方舟をも可能にする。実現の可能性のない計画のことをバベルの塔と呼ぶが、グーグル、あるいはその後進がそれをやってしまうかもしれない。そう遠くない将来、世紀の発明、続いて発見がメディアを賑わす可能性が出てきた。

もう寝ます

たまには何か役に立つことを書いてみたいと思い、さっきからずっと考えているのだけど、なにも思い浮かばない。

アンモナイト

水曜の朝はあいまいな空気感がある。
時間も定まってないような気がする。
こんなことを言うと、女性の思考回路は一瞬たじろぐ。
ぼくの机の中には、小さいけれど、アンモナイトの化石がある。
きれいに磨かれたアンモナイトの化石は宝石のようだ。
これなら女性でも興味を持つかもしれない。
ぼくは化石を見つめ、これが生きていた姿を想像する。
でも、きっと、女性はそんなことはしない。
女性にとっては、化石は数ある石のひとつでしかない。
きれいに磨けば、別の意味で興味を持つだろうけど。
概して男はロマンチストだといわれる。
時に10は7であるし、また100である。
女性はそうじゃない。10は10でしかない。
「水曜の朝はあいまいな空気感がある」
ぼくはこんなことを言いがちだ。
でも、きっと女性はこういう。
曖昧なのは、あなたのノーミソ。

カッコ悪い話

Photo_24「ウディ・アレンって、いつも美女といっしょで、うらやましいよね」映画の話からウディ・アレンの話になった。たまたまウディ・アレンを特集した雑誌があったので、カウンター越しに彼女に渡した。ページをめくっていた彼女の手が止まった。
「こんなカッコウしてみたいな」
どんなカッコウかと思ってのぞいたら、ウディ・アレンに美女が詰め寄ってる写真だった。ぼくだって、願わくば美女にこんなカッコウ、されてみたい。それにしても、彼女も思い切ったことを言うもんだな、と、そのときぼくは思った。しかし、違ったのだ。彼女の言った「カッコウ」とは、美女の着ている衣装のことだったのである。ぼくは彼女が帰ったあとでそのことに気づき、情けなくなった。

Start

Piano_02_1プロに頼むことで、ピアノの移動はあっけなく終わった。そうなると、あとの問題はぼく自身である。いよいよ、ぼくはピアノの練習をしなくてはならなくなった。今日は定休日、ピアノの本を買いに出かけた。まず、時々利用しているブックオフという古本屋で物色してみた。
ない。辛うじて「大人のためのバイエル」という教本が見つかったので、それを購入。105円。近くの本屋を2軒はしごしたが、どちらにもなかった。家に帰り、雑巾片手に、一生懸命ピアノを拭いた。ピカピカになった。机を片付けたからといって勉強をしたことにならないのと同じで、いくらピアノを拭いてもピアノがうまくなるわけではない。ぼくは孤独だった。ぼくはバカなことを始めてしまったのだろうか。

8400yen

27日の朝、ピアノを移動させようとしてぼくが発生させたエネルギーは、行方を見失って迷走、ぼくの腰を誤爆した。ピアノに罪はなかった。主人が床に伏したことを知らないピアノは、渋谷駅の忠犬ハチ公のように、いつまでも部屋の隅に佇んで、じっとぼくを待っていた。ぼくはそんなピアノが不憫に思えてならなかった。だが、ぼくには再びピアノを自分の手で動かそうという勇気はない。ぼくはピアノ運送屋に電話をした。
「あのー、ピアノを部屋から部屋に移すのに、いくらかかるでしょうか」
税込みの8400円であった。案外安いものである。ぼくはお願いすることにした。最初からこうすれば、ぎっくり腰になって7000円もする高価なベルトを買わなくてすんだのだった。

雨の花見

今夜は店のお客さんたちと花見。あいにく天気は下り坂。甲突川べりに確保してあった花見会場は急遽Sさんちのガレージに変更された。ガレージと言ってもケッコウ広く、フェラリが3台、楽に格納できる広さだ。メンバーは約15名で、美男美女ばかり、という触込みである。会場に着くと、桜の花もすでに壁際に飾られ、用意万端ととのっていた。「では、開会の挨拶を」と、koji氏から見えないマイクを渡されたぼくは「あー本日は好天に恵まれ…」などとテキトーなことをモゴモゴいってさっさと乾杯した。席に座るとぼくはさっそく、昨夜、某掲示板で話題になった、じとさん手作りのおでんを所望した。「こ、これは」大根を一口食べて絶句した。恐ろしいほどに完璧な仕上がりである。花の独身男が一人で作ったとはダレひとり信じないだろう。南薩支部のもっちゃんが作ってきたチマキにも驚いた。だしは小エビであろうか。うますぎる。わざわざ海に行って取ってきたという、トコブシ、ミナ、カラスガイも絶品。どれもが熟練の母の味だ。なぜ彼女がいまだに独身でいるのか謎である。サカモトさんが持ち寄ったのは、手作りそーめんチャンプルー・スペシャルとどこかで買ったコロッケ。確かな審美眼を持つ者によって選ばれたコロッケは、さも当然のようにアートなうまさを誇っていた。麦の花さんが作ったという「きゃらつわ」が手許にまわってきた。なんという奥の深い、侘寂の効いた日本のルーツ的な味であろう。まさにソウルフード。ぼくは遠い目になって、いつしか歌を口ずさんでいた。「うーさーぎーおーいし、あーのやーまー」。酔いが回っていい気分になったところで、どこかで「ぜんざいを食べたい人は?」との声があった。「おー、くれ、くれ」ぼくは叫んだ。shinoさん特製白玉ぜんざい。それを無心に食べてると、Qえもんさんが「ぜんざいを食べてる写真を撮るからポーズを」という。しかし、すでにお椀が空っぽだったので、お代わりをした。酔ったぼくは隣に座ってたshinoさんのお父さんを相手に、いつものように究極の女性論を展開していた。すると、きみさんの手作り「桜の葉の塩漬け入りシフォンケーキ」が出た。塩味という、意外性のある不思議なうまさだった。いつものことだが、ぼくは食べてばかりいたようだった。