これ知ってる?

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「これ知ってる?」
外国製らしいチョコレートをテーブルにのせ、
「知ってるはずだけど」という目で息子は言った。
「うん、どこかで見たような気がする」
ぼくは言った。
確かに知っている。なのに思い出せない。変な感じだ。
なんというか、記憶の格納場所がいつもと違う。
「知っているのだけど。 変だな、思い出せない」
ぼくは言った。

焼いもonly

あれは3年前。だったと思う。ぼくはダイエットをした。2ヶ月で10数キロ落とした。以来、ぼくの食欲は大きく変化してしまった。ダイエットをする前は腹が減るとガマンができず、イライラしたのに、今は、腹が減ってもさほど気にならない。丸一日、何も食べなくても平気になった。果たしてどちらが正常なのだろう。すこし気になる。あたりまえだと思うのだけど、何も食べないでいると、体重はどんどん落ちていく。気をつけないと、体重が落ちすぎることがある。食べ物に対する感覚も変わった。あまり加工してない、シンプルな食べ物が好きになった。いま、こんな計画を考えている。新聞紙にくるんだ焼芋と、ポットに詰めたコーヒーだけを持ってハイキングに出かける。昼食は焼芋オンリー。それだけのことなんだけど、なぜか最近、そんなことが楽しく思えるのです。

大きな太陽

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今朝、今日の太陽はずいぶん大きく見えるなぁ、と思いながら店に向かいました。空が霞んでいたので、太陽が滲んで広がったのだと思います。夕方、お客様がいない時間に店の屋上に上がって夕日を見たら、やはりいつもより大きな、不思議な太陽が浮かんでました。

手作りのおかし

焼イモを食って元気が出てくるのは、やさしい人が作ってくれたお菓子を食べて、うれしくなるのと似ている。イモやミカンは、太陽や雨や土が、ぼくという子供に作った手作りのお菓子だ。ぼくはいつも勝手な解釈をする。でも、ほんとにそう思っている。イモやミカンを食べるとき、ぼくはうれしくて泣きそうになる。子供みたいに

いつもの温泉は熱かった

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雨のち曇り。昨日の予報ではそうなっていた。ぼくの大切な休日が雨だなんて。080107_07ぼくは不幸になりそうな予感がしたが、不幸ぶるのは今年はやめようと思ったのでやめることにした。くもり空の下、車は海岸通りを南下していた。やがて車は右折し、人気のない道路をしばらく走ったのちに、いつもの某温泉の駐車場の奥に停止した。昨日までは大変混んだであろう駐車場も、今日はガランとしていた。たまにはミヤビな気分に浸るのも良かろうと思い、今日はヒノキ風呂選んでみた。080107_06いい気分だった。今度家を建てる時は、湯舟はヒノキにしようと決心した。温泉を出るころには、空はすっかり晴れ渡っていた。某温泉を後にした車はいつものように某湖を半周し、某山のふもとにある某ハーブ園へと進入した。ちょうど昼だったので、レストランに入り、日当たりの良い窓際のテーブルに座った。いつものようにAセットを注文。080107_02食後のデザートも、いつもと同じハイビスカスのシャーベットをチョイス。なにもかもがいつもと同じだった。いつもと違うのは、ぼくだけなのかもしれなかった。今日は早く帰って、映画を見るつもりだ。帰りに、ナントカ物産館に寄って新鮮な野菜を物色した。すると、あの、個人的に幻のブランドのほうれん草を発見してしまったのだった。
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早起きは眠いのだった

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昨夜は早く床に就いた。しかし、夜更かしが続いていたせいで、なかなか寝付けなかった。やっと眠れた、と思ったとたん、目覚ましが鳴った。4時30分。 そういえば今日、最後から2番目のお客さん(特にダレとは申しませんが)は、朝起きたら3時だったという。午後の。
これほど一生懸命仕事をしている自分を見るのはまれだ。というくらい、今日は仕事をした。ような気がした。そんなわけで、疲れているのでぼくは寝ます。みなさんも早く寝てください。おやすみなさい。
 写真は今年のコーヒーカレンダー

正月モード最終日

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今日でぼくの正月休みは終わり。明日から仕事だ。なかなか良い正月だったと思う。毎日のんびりとコーヒーを飲んで、本を読んだり、写真を撮ったり。元旦の朝、初めてかけたアルバムはLed Zeppelin IV。本は、F少年から借りた阿川弘之著「大人の見識」がおもしろかった。ソファに深く腰を沈め、じっくり時間をかけて読んだ。ソファで本を読むのは久しぶり。この手の本を、もっと若いときにたくさん読めたら良かったのに、と残念に思うのだけど、この歳だからこそ、味わい深く、おもしろく読めるのかもしれない。明朝は4時半起き。今夜は早く寝よう。

正月モード三日目

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残り少ない正月休みを無駄なく過ごそうと、きょうは一見、無駄に見える時間を過ごすことにした。コーヒーを淹れ、食堂のイスに寝そべり、年末にF少年から借りた本をぼんやりと読みはじめた。読み進んでいくと、エドワード・グレイという英国の人が、人間が幸福である条件としてこんなことを言った、と書いてある。
第一、自分の生活の基準となる思想
第二、良い家族と友達
第三、意義のある仕事
第四、閑を持つこと
「閑を持つこと」が、人間が幸福である条件に入っている。堂々と。この本の著者(阿川弘之)もこう言っている。「これらの条件の中で、閑を持つ事、というのは人はそれ程大切な条件と思わず、見落とすかも知れず、面白く思った」
ぼくは時々思う。この瞬間瞬間、確かにぼくはぼくなのだけど、そのぼくとはいったいなんだろう、と。どこかの国に「自分を知るには一生かかる」という諺があるのだが、おそらく自分というヤツは一生かかってもわからない。人は自分がわからないまま一生を終える。ここでいう「閑を持つこと」とは、自分を客観視する視座を確保することではないだろうか。つまり、いつも自分に向かって問いかけ続けること。自分と対話すること。そんな、閑人じゃないとできないことをすることが、自分を自分でいさせることであって、すなわち、人間として幸福である条件のような気がする今日この頃なのです。
なに書いてるんだろ。おれって閑かも。