洗濯したシャツのボタンが取れかかってたので、付け直すことにした。目が疲れていると小さな針穴に糸を通すのは至難の業である。しかし、ぼくはイトも簡単に糸を通す。
「フォースを信じるんだ」
と、唱えると、目を瞑ってても糸が通るのである。見よ、これがその証拠写真だ。一発で通ったという証拠にはならないが。 例によって、パソコンでボタンの付け方というページを開き、これを見ながら行った。ボタン付けは、いったんやり始めるとけっこうおもしろい。思わず調子にのって、3個付け直してしまった。ボタンをつけると次はアイロンがけである。これも楽しい作業だ。BGMはボサノバがぴったり。いつの間にか口笛を吹きながら作業している自分に気づいて苦笑い。
Gorgones
恐らく外は36度くらいあるのだろう。窓の向こうで景色が揺らいでいる。そんな午後、妙な霊気をまとった若き女性3人がカウンターを占めた。3人は、あたかも偶然の出会いを無邪気に喜び合っているようにみえたが、その実、それが偶然を必然に置き換える能力を悟られないためなのか、その能力に気づいてないのかは不明だった。あたりに非ユークリッド的空間の歪みを感知したぼくは本能的にバリヤを張り、防御姿勢をとった。よそ目には、カウンター越しに交わされる会話は、どこにでもある言葉の応酬にみえただろう。しかし、仕掛けはどこに隠されているか解らない。言葉の行間。目線。何気ないそぶり。いうまでもないが、イノセンスなふるまいをする相手ほど気をつけなくてはならない。初めの一歩である。
夏の反動
デリカシーに欠ける盲目的パワーも、夏の日差しが弱まるように消えていく。一週間後は、9月。
訳もなく反省してしまう9月。
脳の整理
ヒマだったので、F氏から借りている茂木健一郎著、「脳」整理法を読んだ。F氏がせっせと茂木さんの本を買い続け、ぼくはせっせと借り続ける。茂木さんは今を時めく脳科学者。この本を読んでておもしろく思ったのは、茂木さんが、現在の科学では解明不能に思われる物理世界の不可思議な謎に、いわば文学的な手法(笑)でアプローチをかけているように見える点。たとえば、当ブログでもたまに登場するセレンディピティ。セレンディピティとは、偶然にやってくる幸運を逃さず手にする能力(だったっけ)。科学上の大発見のほとんどすべてが偶然の発見によるものなのだが、この偶然にやってくる幸運という、コントロール不可能な幸運を必然化しようという矛盾した試みを茂木さんは科学的な手法として確立しようとしている。わけないか。
必然化といっても、実際にはAを求めている過程でBという幸運を偶然手にする確率を上げようという手法なのだけど。
注) このエントリーでぼくは科学ではなく文学を述べております。
ついでに…
セレンディピティという言葉の生みの親、ウォルポールは次のようなことも言ってます。
「世界は感じるものにとっては悲劇であるが、考えるものにとっては喜劇である」
雷鳴
昼とは違い、夜の曇は、妙なエネルギーを帯びて回転している。
屋上のベンチに腰掛けてると、遠い北の方で閃光が走った。
ずいぶん遅れて、地を這うような轟。
心が動かないのは、そんな現象に飽きてきているからだろうか。
雷鳴。ぼくの規則正しい呼吸、そして心音。
旅
赤いシロクマ
空が青い。どことなく秋の気配が漂っている。峠を越え、下りはじめたところでユーミンの「悲しいほどお天気」がかかった。だれもいない海浜公園。ブランコにのった。何年ぶりだろう。空に向かって一生懸命こいだ。簡単な遊具だけど空に向かう感覚は一級品だ。体から抜け出た魂が、青い空に飛んでいく。笠沙恵比寿で昼食をとる予定だった。でも気が変わり、ハンドルを左に切った。丸木浜は閑散としていた。泳ぐ準備をしてきていたのだけど、気分が乗らなかった。開聞山麓のハーブ園で昼食にした。ハイビスカスのシャーベット。あたりまえのように冷たかった。こころは秋の身支度を済ませていた。フラワーパークで珈琲を飲んで家に帰った。屋上でシロクマを食べた。ブランデーをかけすぎたシロクマは赤っぽかった。
カウンター
第三日曜日は、ぼくにとって恐ろしく貴重な休みであるが、きょうは店を開けることにした。しかし、実を言うと、ぼくの仕事は半ば遊びなのである。かもしれない。なぜなら、ほとんどのお客さんがトモダチみたいな感じの人なのだ。とりわけ今日は休日ということもあって、ほとんどのお客さんがトモダチみたいな人だったのだった。ただ、残念なのは、ぼくはカウンターの向こうに行って、いっしょに遊ぶことができないということ。
秋の気配
夏は過ぎ去り、遠く小さくなって、ぼくに手を振る。
来年、また遊ぼう。ぼくも手を振る。
いまぼくは、遊びすぎて宿題をたくさん抱えた子供の気分。
台風の一日
へろへろ台風が、よたよたとワルツを踊りながら北へ移動している。ブンチャッチャーブンチャッチャ。いい気なもんだ。おかげで、店にはだれも来ない。しかたなく、ぼくは本を読む。F氏から借りてる青いハードカバー。「いったい、フランツ・シューベルトはどのような目的を胸に秘めて、かなり長大な、ものによってはいくぶん意味の汲み取りにくい、そしてあまり努力が報われそうにない一群のピアノソナタを書いたのだろう?」
よーし、いいぞ、まずまずの出だしだ。どれ、珈琲でもいれようか。
そんな退屈な一日であった。