不安な夢

ここ数日、変な夢ばかり見る。今朝は巨大なサメと戦う夢を見た。その前はライオンだった。いずれもかなり不安な夢である。サメと戦って、ぼくはどうなったか。残念ながら食われてしまった。主人公は死んでしまうのである。ふつう、主人公を殺すと、その作家の作品は次から売れなくなる。夢の鑑賞者が自称フランス人ならそれで納得するだろうが、ハリウッド映画が好きなアメリカ人は怒りだすかもしれない。カメラワークは悪くなかった。サメが上半身をくわえ込むのと連動して視界も真っ暗になる。その合理的な描写には自分の夢ながら感心した。ぼくはそこでガバッと跳ね起き、以来、明け方まで寝付けなかった。

役者

昨日のお昼過ぎ、カウンターで気の合う常連さんたちとどうでもいいような話をしているとき、「演じる」という話になった。ほとんどの人が、社会の中では自分の役を演じている。子供はわがままだから、そのままの自分を出してくる。突然、人前で泣き出したり、大声で叫んだりする。大人になったら、そういうわけにはいかない。たとえば、腹が立っても、ニコニコしている自分を演じなければならない。人前で喜怒哀楽をストレートに出してたら、いつの間にか周囲に誰もいなくなるかもしれないし、下手をすると、病院行きになるかもしれない。
その時お客様の中に劇団の役者さんがいたのだけど、彼女の自然で静かな佇まいに、ぼくらは魅了されていた。目の動き、おしゃべり、呼吸の間合い、その一挙一動に無駄がなく、必然性が感じられた。演じているのではなく、自分を正確に表現しているように見えた。演じるプロは、演じないこともできるのだと思った。それは道端の花が演じるわけでもないのに美しいのに似ていた。

かんぱーい!

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今日は休みだったんだけど、ずーっと、家にいました。イエ~! 天気もよかったんだけどね。今、病気療養中の友人が、一週間ほど前から家に泊まって安静療養中。近くに身寄りがないので、うちに泊まってるの。チャ~ミングな女性。ウフ。ぼくは今日、部屋にこもって、お客さんのブログを作成してました。同じシナプスブログなんだけど、ベーシックプランだったので、カスタマイズに制限があるんです。でも、何とかカタチになってきました。近々公開する予定。さっき終わったので、ひとり、ビールで乾杯しました。

揺れるまなざし

商品を仕入れていると、たまに間違った納品書が送られてくることがある。数量や単価の誤記がほとんどで、多くの場合、放っておくと損をするのはこちらだ。商品は届いたものの、代金が請求されないこともある。放っておくと泥棒になるので、しぶしぶ自己申告することになる。その額は今思いつくだけでも2~30万を下らない。実は、数日前送ってきた納品書に誤りがあった。数量の誤記である。放っておくと、ぼくは数万円得をすることになる。もちろん申告するのだが、この場合、これがその担当者以外の社員に知れると彼の立場が悪くなるので、本人の携帯に直接電話かメールをすることになる。で、今回は電話代がもったいないのでメールを送った。
「おい、納品書、間違ってるで」
丸1日経ったが返事は返ってこない。担当者の顔が浮かんだ。その瞳の奥で小さな光が揺らぐ。その時ふと、ぼくは奇妙な考えに捕らわれた。ぼくは貢がれているのではないだろうか。

飲んでる?

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ここ数日、本はずんずん読めるのだけど、何か書こうと思ってパソコンに向かうと、なーんにも書けない。アタマがコチコチに固まってるようだ。こんなときは、無理に書かないほうがいい。そんなわけで、いま、ビール飲んでますがよ。

キンカン・ダイエット

Kinkan_01お客さんからキンカンをもらった。今朝ちぎったばかりだと言う。ぼくはキンカンが好きなのだけど、キンカンを食べない人は意外と多い。酸っぱいせいかもしれない。ぼくは種ごと全部食べる。もらったキンカンは50個以上あったと思うのだけど、腹が減ってたので、すぐになくなってしまった。

噴水のある風景

Kitafutou2「そううつだもの」のあやさんが店に持ってこられた写真が忘れられない。その時あやさんが見せてくれたのは、ピンホールカメラとSFX MAKERという2種類の変なカメラで撮った不思議な写真だった。左の写真はピンホールカメラで撮ったもの(無断で載せてゴメン)。
あやさんのブログにはアップされてないが、同じ噴水の風景を「SFX MAKER」というカメラで撮ったものが、ぼくは忘れられない。その写真もこの写真と同様、風景全体が盛大なフレアとゴーストに覆われている。しばらく見つめていると、その光がまるで日常の知覚を越えて届く霊的なエネルギーのように感じられてくる。写真は止まっているのに、噴水が動いているように見える。時間感覚を狂わせられたぼくは、フラッシュバックしながら遠い昔に落ちていった。

おもしろいもの

ほんの一時期だけど、テレビゲームにハマったことがあった。もう10年近く前。今のテレビゲームはもっとおもしろいのだろうと思う。人の脳には退屈を嫌う性癖がある。たとえば人は長時間、何もない狭い部屋に閉じ込められると幻覚を見るようになる。ぼくは巨大な虫の幻覚を見て死ぬほど驚いたことがある。これは、脳がありもしない像や音を勝手に創作し、それを外部からの情報として自らに知覚させることで起こる現象だ。脳は自らを退屈から救うために一人芝居を打つのである。自分の持ち主を驚かせて喜ぶなど、まったく奇妙なふるまいであるが、それほどまでに脳は退屈を嫌う。子供はじっとしていない。退屈が大嫌いだ。脳が活発に活動しているからである。ぼくが子供のころには、テレビゲームなんてなかった。退屈退治のために、山や川に出かけなくてはならなかった。そこには予測不可能な危険が常に待ち受けていた。野良犬、毒虫、蛇、がけっぷち、高波、ジョーズ。退屈退治は命がけであった。カアチャンに見つかったら大目玉を食らうからである。しかし、もし当時、ぼくの家にテレビゲームがあったら、どうだっただろう。ぼくだって、母親に大目玉を食らってまで洞窟探検や、遊泳禁止の海で遊んだりはしなかっただろう。スイッチを入れれば、簡単に退屈をしのげるのだから。洞窟探検や遊泳禁止の海は、まさに死ぬほどおもしろいのだが、現場に達するまでの手続きが面倒であった。不良仲間を募ったり、理科室から太いローソクをネコババしなくてはならなかったのである。脳は性急である。待つのが大嫌いだ。そこにいくと、テレビゲームは手軽だ。スイッチポン、ですぐに佳境に達することができる。しかし、ここにワナが潜んでいる。洞窟探検や海遊びは下手をすると死ぬ。テレビゲームは、なかなか死ねない。リスクのない遊びは死んだ遊びだと思う。だったらどうするか。たとえば、勝ち負けを競うなら、金を賭けるのである。罰ゲームを準備するのである。するとどうなるか。PTAが騒ぐのである。母親が怒り狂うのだ。想像しただけで恐ろしい。そういえば、河合隼雄は日本は母性の国だ、といっていた。と、ここで、話しが脱線しているのに気づいた。ぼくはナニを言いたかったのか。テレビの話しであった。さっき、あきこさんのブログを読んで、思わずこんなことを書き始めてしまったのである。おそらくテレビは日本の子供や奥様たちの退屈を救っているのだと思う。見かけ上の平和はこのようにして保たれているのだ。たとえば奥様の場合、ダンナといるより、テレビを見てるほうがずっと楽しい。かもしれない。こう書くと、ダンナに問題がありそうだが、そうともいえない。どう見てもテレビ相手じゃダンナが不利である。テレビは妙にやさしくなれなれしい。笑わせるのも得意である。スイッチポン、で、文句も言わない。そこでぼくは言う。奥さん、テレビを消してください。するとどうなるか。強力なライバルがいなくなることで、とりあえず、ダンナが浮上する。おもしろく見えてくる…可能性は…やっぱりないかもね。

理性の限界

ぼくらが住むこの世界にはまったく異なった自然観を持つ二通りの人間が隣同士で暮らしている、などというキャッチでブログを書き出せるのは、ここが日本だからだ。日本人が書いた記事をよんでいると、しばしば「科学が神を滅ぼして久しいが…」などと平然と書かれた文章に出会う。神は存在しないというのが常識的日本人間での当然の了解事になっているらしい。もしかすると、今の日本人の大半は神の存在を信じていない。特に、世の創造者としての具体的な神は、スーパーマン以上に荒唐無稽な存在とされている可能性がある。昨年映画になった、あのダビンチコードを読んだ標準的日本人は、その舞台がまさに遠い異国の地であることを実感されたに違いない。少なくとも、そもそもカミサマなど、見えもしない曖昧なものを真剣に考えること自体アホらしい、と考える人にとって、キリスト教という宗教そのものを主題に据えてクソマジメに展開していくストーリーには、かなりの違和感が立ち上がったはずだ。信じられないことだが(笑)、ヨーロッパには、天地の創造者としての神や、救世主キリストをまったく本気で信じている人がイッパイいるのである。もしかするとあなたは、そういう人たちを、バカげた奇跡や迷信じみたことを未だに本気で信じている、近代科学に暗い、時代遅れの連中と見なして笑うかもしれない。しかし、いうまでもなくレオナルド・ダビンチ自身、傑出した科学者であるし、ストーリーの後半で暗号解読のカギを担うニュートンは近代精密科学の祖といわれている。ここで、ニュートンの自然観について書かれた記事を紹介します。
十七世紀の中旬にイギリスに生まれたニュートンは、天体の動きを含めた自然科学現象に物理法則を見出し、近代科学に多大な影響を与えたが、彼の科学的な姿勢の根本には神に対する絶対の信頼があった。神によって天体が完全な場所に配置されているからこそ、そこに一貫した法則が導き出される。人間の科学的研究は、神が創造した自然の中に神の意を読み取ろうとする努力であり、すなわち、自然は第二の聖書であった。
(雑誌、風の旅人4号スティーブン・ジョンストン「ターナー」より抜粋)
ついでに(笑)、以上のことをブログに書きたくなったきっかけになった記事を以下に記します。出典は同じく「ターナー」
困難の中、自分を前向きに推進させる力は、自らの内部に湧き起こる驚き、感動、憧れ、畏れなど、宗教的とも言える情感を必要とする。それはセンチメンタルなものではなく、人間の理性と敵対するものでもなく、理性の限界を自覚した時に人間をさらなる高みに導く霊的な直感と想像力の賜だ。