思い込み

午前中はけっこうヒマだった。というわけで、F氏から借りていたもうひとつのベストセラー、竹内薫著「99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」を読んだ。この本で著者が言いたいのは、真に科学的な態度とは?ということのようだ。「ね~あんた、科学的な態度ちゅうのは、実は、ほら、こーゆーことなんよ。分かった?あ、わかんない。やっぱりねぇ」という具合に、ひとなつっこく、しつこく問いかけてくる(笑) きっと著者は三度のメシより科学が好きな人間なんだと思う。文中、必要があって著者はクリスチャンであることを証しているが、この著書のおもしろさの所以が、案外そこにありそうだ。クリスチャンゆえの感性、観点がものをいっているように思う。日本のほとんどの科学者は、ある壁をどうしても乗り越えられない、という話を以前お客様から聞いたことがある。自分の感性は絶対的で、普遍性のあるものと思い込みがちだ。アイデンティティを見失うのではないかという潜在的不安がそうさせるのだろうか。日本人の感性が通じない場所、自分の感性が通じない世界はいくらでもある。たとえば、その存在があなたに大きな違和感を抱かせる宗教があるとすれば、それはその一例の可能性がある。一般に、日本人は宗教観念が希薄だ。宗教を科学の対立概念のようにさえ思いがちな一般の日本人読者が、クリスチャンが真の科学を語るという矛盾するスタンスに意外性を覚え、著者の観点をおもしろがっている、というのは深読みしすぎか。このブログはぼくの思い込みで書かれているから、はなはだ主観的で、独善的だ。客観性などどこにもない。いや、せっかくだから科学的な態度で考えてみよう。主体が自分である限り、真の客観など宇宙のどこにもない。というより、宇宙は自分の中にある。ところでこの著書、ある概念について著者自身が思い込みで断定してしまっている箇所がある。「思いこみで判断しないため」というテーマにおいて自縄自縛に陥ってるようで、ぼくはミョーにうれしかった(笑)

第365話

ぼくは自分のイメージ作りにけっこう注意を払うほうである。
たとえば「ぼくは勤勉を絵に描いたような男である」と、仮にここで述べても、見よ、だれ一人異論を唱えるものはない。なぜなら
「このブログ、毎日欠かさず書かれているみたいだわ」
という、誰の目にも明らかな事実がここにあるからだ。
毎日ブログを書くだけで「勤勉な人」というレッテルを貼るには、いささか抵抗があるという向きもあるかもしれない。ヒマを持て余しているだけじゃないか、というわけだ。そのとおりである。しかし心配には及ばない。つまり、これは当ブログが醸し出す固有のムードに負うところが大きいのだが、ここに100円ショップで購入した一見ブランド品に見えるペンがあったとしよう。ぼくが持つと、だれもがそれをモンブランと信じて疑わない。それと同じことなのである。
このブログが今日で丸一年経ったことに気づいた。totto*さんのブログのおかげである。どうやら、ぼくが勤勉である、というイメージも、つつがなく定着したようにみえる。どうでもよさそうなネタで埋めているだけじゃないか、といわれれば、そのとおりなのであるが。

復活

ぎっくり腰もほぼ完治し、しばらく休んでいた日課、腕立て伏せ25回、腹筋運動25回を再開した。ところで、ふだんはほとんど会話を交わすことのないお客様から「腰の具合はどうですか?」と声をかけられ、幾度となくギョッとした。このブログを読んでいる人は意外と多いようだ。ウカツな事は書けない。ウカツなことしか書いてないけど。
さて、腕立て伏せと腹筋運動を毎日欠かさず行うのには、清く正しい理由がある。それは「ある夏の日」のためである。ぼくは海で泳ぐのが好きなのだけど、海パンのゴムの上にハラが載っている図だけは避けたい。そういうシルエットは海に似合わない。これは切ない美学の問題である。

プールサイド

Alongvacation_1ダスティンホフマン主演の映画、「卒業」。主人公の家にはプールがあった。ぼくはこの映画を見たとき「アメリカじゃどこの家庭にもプールがあるんだ」と思った。しかし、わが家にはなかった。プールのある生活。いいね。
なんとかならんもんかね。

ノアの方舟

ヒマだったのでF氏から借りているベストセラー2冊のうち梅田望夫著「ウェブ進化論」を読んだ。Web2.0、「ネットのあちら側」のことを書いてあるのだけど、実に興味深い内容だった。読み進んでいくうちに、グーグルがネットでやっていること、目指しているものが、いかに革命的なことなのかが次第に解ってきて、読んでてゾクゾクさせられた。グーグルの秀才連中がたくらんでいるのは、バベルの塔の再建ではないかという気さえした。人々が天に達する高塔を築き始めたとき、神は人間の僭越を憎んで人々の言葉を通じないようにした。言葉が通じなくなった人々は世界に散っていった。これがいわゆるバベルの塔である。ネットの世界には国境はもとより、垣根がない。衆知を集めれば個では成し得ないことが可能だ。世界中の衆知を瞬時に集め、精製し、秩序を見つけ、あるいは付与する。これはバベルの塔の建造を髣髴させる。グーグルはそれを目指しているように見える。もしそうなら、ノアの方舟まがいの計画も同時進行してるかもしれない。バベルの塔の完成は、ノアの方舟をも可能にする。実現の可能性のない計画のことをバベルの塔と呼ぶが、グーグル、あるいはその後進がそれをやってしまうかもしれない。そう遠くない将来、世紀の発明、続いて発見がメディアを賑わす可能性が出てきた。

もう寝ます

たまには何か役に立つことを書いてみたいと思い、さっきからずっと考えているのだけど、なにも思い浮かばない。

アンモナイト

水曜の朝はあいまいな空気感がある。
時間も定まってないような気がする。
こんなことを言うと、女性の思考回路は一瞬たじろぐ。
ぼくの机の中には、小さいけれど、アンモナイトの化石がある。
きれいに磨かれたアンモナイトの化石は宝石のようだ。
これなら女性でも興味を持つかもしれない。
ぼくは化石を見つめ、これが生きていた姿を想像する。
でも、きっと、女性はそんなことはしない。
女性にとっては、化石は数ある石のひとつでしかない。
きれいに磨けば、別の意味で興味を持つだろうけど。
概して男はロマンチストだといわれる。
時に10は7であるし、また100である。
女性はそうじゃない。10は10でしかない。
「水曜の朝はあいまいな空気感がある」
ぼくはこんなことを言いがちだ。
でも、きっと女性はこういう。
曖昧なのは、あなたのノーミソ。

カッコ悪い話

Photo_24「ウディ・アレンって、いつも美女といっしょで、うらやましいよね」映画の話からウディ・アレンの話になった。たまたまウディ・アレンを特集した雑誌があったので、カウンター越しに彼女に渡した。ページをめくっていた彼女の手が止まった。
「こんなカッコウしてみたいな」
どんなカッコウかと思ってのぞいたら、ウディ・アレンに美女が詰め寄ってる写真だった。ぼくだって、願わくば美女にこんなカッコウ、されてみたい。それにしても、彼女も思い切ったことを言うもんだな、と、そのときぼくは思った。しかし、違ったのだ。彼女の言った「カッコウ」とは、美女の着ている衣装のことだったのである。ぼくは彼女が帰ったあとでそのことに気づき、情けなくなった。

Start

Piano_02_1プロに頼むことで、ピアノの移動はあっけなく終わった。そうなると、あとの問題はぼく自身である。いよいよ、ぼくはピアノの練習をしなくてはならなくなった。今日は定休日、ピアノの本を買いに出かけた。まず、時々利用しているブックオフという古本屋で物色してみた。
ない。辛うじて「大人のためのバイエル」という教本が見つかったので、それを購入。105円。近くの本屋を2軒はしごしたが、どちらにもなかった。家に帰り、雑巾片手に、一生懸命ピアノを拭いた。ピカピカになった。机を片付けたからといって勉強をしたことにならないのと同じで、いくらピアノを拭いてもピアノがうまくなるわけではない。ぼくは孤独だった。ぼくはバカなことを始めてしまったのだろうか。

8400yen

27日の朝、ピアノを移動させようとしてぼくが発生させたエネルギーは、行方を見失って迷走、ぼくの腰を誤爆した。ピアノに罪はなかった。主人が床に伏したことを知らないピアノは、渋谷駅の忠犬ハチ公のように、いつまでも部屋の隅に佇んで、じっとぼくを待っていた。ぼくはそんなピアノが不憫に思えてならなかった。だが、ぼくには再びピアノを自分の手で動かそうという勇気はない。ぼくはピアノ運送屋に電話をした。
「あのー、ピアノを部屋から部屋に移すのに、いくらかかるでしょうか」
税込みの8400円であった。案外安いものである。ぼくはお願いすることにした。最初からこうすれば、ぎっくり腰になって7000円もする高価なベルトを買わなくてすんだのだった。