10年

10年なんて、あっという間だ。
きのう、店に来た同級生と話していてそう思った。
時を過ごすことで増えるものは何。
記憶?
記憶は燃料。想像力はエンジン。
良く燃える燃料と、高性能エンジン。

かもめ

昨夜は、店を閉めたあとカルメン・マキの歌を聞きに行った。場所は天文館のバー。狭いフロアには紫煙がたち込め、30人ほどの客が各々グラスを傾けている。ギター、パーカッション、ヴァイオリン、そして黒尽くめのカルメン・マキ。記憶の海、人魚、かもめ。海に因んだ歌が多い。いつしか、ぼくは港町のバーにいるような気分になっていた。

枯れたシュロ

070318_01庭に植えてあったシュロの木が枯れた。ほうっておくとシロアリがやってくるので、引き抜くことにした。スコップで周囲を掘り、根を切っていく。15分くらいで掘出すことができた。問題は、この丸太をどう処分するかだ。いつもなら焚火で派手に燃やすのだけど、煤煙などの問題がありそうなので、のこぎりで小さく切り、生ゴミといっしょに出すことにした。夕方、落ち葉で焚火をしていると、近所の奥さんがやって来て「今夜は庭でバーベキューけ?」と言った。
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かんたんマニュアル

最近のケータイの多機能ぶりには驚くばかりだ。ぼくのケータイにもイロイロ便利な機能が備わっているのだろうが、それらを使いこなすには、あの分厚いマニュアルを読まなくてはならない。びっしり書き込まれた小さな文字。次々に出現するチンプンカンプンなカタカナ単語。早い話が、読む気にならない。そういう人を想定してか、最近の電化製品には厚いマニュアルとは別に「かんたんマニュアル」とかいう薄い説明書が付いている。これはありがたい。(これさえ読まないけど)
070316ケータイ、パソコンをはじめ、複雑な道具には使用マニュアルが付いてくる。マニュアルを読まないことには、その道具の性能を十分に発揮させられないばかりか、壊しかねない。さて、ヒトにとって一番大切な道具はなんだろう。それは脳だと思う。脳は物質であり、目的を遂行するために論理的に組み立てられたハードウェアだ。ただし脳が稼動することで副次的に心が生じるのか、心という運転手を収容するために脳があるのかは分からない。そもそもその心も、即ち喜びや悲しみといった感情さえも、生命維持、種族繁栄という目的遂行にかかる、高度な判断を行う機能の一つでしかない、とも言われている。でも、そんなことはどうでもいい。われ思う、ゆえにわれあり、だ。そう思うしかない。脱線したけど、脳を一つの道具として捉えた場合、その使用マニュアルを読んでおくことはとても大切だと思う。先日F少年から借りた、池谷裕二著「脳はなにかと言い訳する」は、脳の使用マニュアル的な記事がてんこ盛りだ。たとえば、こんなことが書いてある。「努力しないで記憶力を高めるには」。一見、眉唾に思えるが、書いてあるとおりに実行すれば、ほんとに努力せずに記憶力を高めることができる。その理屈も説明してあるが、難しくないから、さっと読める。まさに、脳の「かんたんマニュアル」だ。

たき火

寒いせいだろうか。無性に焚火がしたい。焚火はとても楽しい。芋があれば焼き芋だってつくれる。わが家には狭いながらも庭があるので、しょっちゅう焚火をしていた。でも、今は、やらない。やれない。詳しいことは知らないのだけど、自宅の庭であっても、焚火をしてはいけないらしい。むかしから火遊びは好きだった。火と遊べない日々。さびしい。わからないだろうな、この気持ち。

14:30pm

ひまなので、外で風に吹かれながら本を読んでいる。ここは、コパカバーナ。知らない人は知らないと思うが、知ってる人は知っている。この時間、さすがに日差しは強いが、ビーチパラソルの下は案外涼しい。読んでいるのは、タケシ・ヨーローの随筆。知らない人は知らないと思うが、彼の随筆は室外で読む方が良い。一見、屁理屈で固めたような文を狭い部屋で蛍光灯をつけてチマチマ読んでいるとノイローゼになるのである。分かる人には分かる話だ。ちなみに随筆のテーマは「理想と現実」で、次の一文で締めくくられている。「要するに理想と現実なんて、自分の頭の納得の問題に過ぎないのである」
あいかわらずである。それにしても漢字が多い。漢字の多い文章は目に悪いに決まっている。つまり、健康によくないのである。というわけで、さっきからナイスバディな彼女が海で呼んでいるので、ひと泳ぎしてこようと思う。

ポスター

Argerich_01_1別府アルゲリッチ音楽祭のポスターが、当店にいらした一部の女性の熱い視線を集めている。そのポスターはトイレの横に張ってあるのだが、どう見てもクラシックには縁のなさそうな女性が足を止め、一様にポスターの右下あたりをじっと見つめている。
「ひとは見かけによらんもんだな」
ぼくは感心しきりであった。しかし、違ったのである。先週のある日、いつもマンデリンしか買わない通称「マンデリン姉ちゃん」が、レジの近くに置いてあるアルゲリッチ音楽祭のチラシを見て叫んだのだ。チラシは壁のポスターの縮小版で、A4サイズである。
「ねえ、これ、だれだっけ!」
彼女はチラシ右下の小さな写真を指差している。下の字が小さすぎて読めないらしい。
「ナカリャコフ」
ぼくは声に出して読んだ。
「でしょう!やっぱり」
字が読めないくらい目が悪いのに、切手ほどの写真がだれなのかはすぐに分かったらしい。
「いいよねーナカリャコフ」
彼女は写真を見つめたまま、ため息混じりに言った。
「見に行けば? 4月に別府に来るんだよ」
ぼくは言った。
「この人はだれ?中島みゆき?」
「マルタアルゲリッチ。知らないの?」
「ぜん、ぜん」
ぼくは唖然とした。
「いいよね~、ナカリャコフ~」
彼女は猫にマタタビのような様子なのだった。どうやらナカリャコフの顔は、女性族にとってフェロモンのようなものらしい。
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オレンジは好きかい?

南の島からタンカンが届いた。変な名前だけど、タンカンはネーブルに似た、すばらしくおいしいミカンだ。ミカンは不思議だ。ミカンを手に載せ、眺め、その皮をむくとき、ぼくは我を忘れて感慨に耽ってしまう。「見事な作品だ。信じられん。不思議だ。奇跡だ」などとブツブツいいながらミカンをむく。家人は「また始まった」とばかり、げんなりした顔をする。ミカンを設計した創造者に思いをはせるとき、ぼくは感動のあまり涙が出る。愛より出でたと思われる恐るべき美意識を以て仕事に臨んだ、目に見えないサムシンググレートに対し、感謝というより、原初的な畏れに似た全身的な情動で、思わずひれ伏したくなる。ミカンを前にひれ伏してるぼくを想像すると、自分でも笑ってしまうのだけど。

午後4時の空

外で本を読んでいたら、風が出てきて、あたりは急に暗くなった。見上げると、いつの間にか暗い雲が空をおおっている。風が運んでくる雨の匂いは悪くないのだけど、暗くて文字が見づらい。ぼくは本を閉じて店に戻った。