ぼくは夏が好きで、秋は嫌いだった。
ぼくは秋が嫌いだ。
そう信じていた。
だから、ツクツクボウシの声がとてもとても嫌いだった。
しかし。
正直に言おう。
ぼくは秋が好き。
ぼくは突然、秋が好きになってしまった。
夏が好きだけど、秋も好き。
だれにも言いたくなかったけど、秋が好きになった。
量は質に転化するか
ぼくは好きなことばかりやっていたいし、好きなものに囲まれていたい。嫌いなものは遠ざけたい。今、ぼくのまわりで生き生きしている人を思い浮かべると、みな、好きなことをやっている。ぼくは今、写真を撮るのが好きだ。仕事中も、ヒマを見つけては首にカメラをぶら下げ、店の周りをうろうろしている。子供の頃、ぼくは虫取り網を持ってキレイな虫を追いかけまわしていたが、写真を撮る行為はそれとよく似ている。しかし、何枚撮っても、思うような写真は撮れない。やはり落胆するのだけど、ちっともめげない。満足できる写真が、そう簡単に撮れるはずがない、と思うからだ。ぼくはぼくの審美眼を信頼したいし、期待したいのだ。(ぼくって、つくづくナルシストだな)
審美眼で思い出したが、美しいものは恐いという。雑誌「風の旅人」の編集長が、「美しいものは、恐い。それは、自分自身の内実を何らかの形で変容させる力があるからなのだ」と、ブログで述べていた。ドストエフスキーも「美」については別のスタンスから「恐い」といっていた。よーな気がする。動物は火を恐れるが、人は自ら火に近づき己を焦がす。美の恐ろしさ。そこにぼくは強く惹かれる。わくわくする。ぼくはぼくの信頼の置けるスコップを手にし、地面に穴を掘るように「美」を追及したい。
昔オレはバッタだったのかもしれない
吹上浜キャンプ村
朝、豆を焼いていると、開店前だというのに階段をせわしく駆け上がってくる者がいる。案の定、妹であった。また事件か。彼女は何でも事件にしてしまう。
「ねーねー、これ見てよ、これー」
といって、古びたアルバムをカウンターに載せた。
「うわ、そんなホコリっぽいものを出すなって」
ぼくはきたない物が嫌いなのだ。
「見てん、これ、アッコにそっくりじゃん」
アッコとは、ぼくの娘の名前。妹は近年、急に年老いた伯母を看るため、独居している彼女の家に通いはじめた。そこで、母の古いアルバムを渡されたのだという。
「後で見るから」
そういってぼくは、ボロッちいアルバムを棚の上に放った。ヒマそうに見えるかもしれないが、豆を焼いている時のぼくは忙しいのだった。
食後、ひと息ついたところでアルバムのことを思い出し、手に取ってみた。どれも女学校時代の友人と撮ったものばかりで、興味の持てる写真はほとんどなかったが、目を引いた写真が二枚あった。ひとつは「吹上浜キャンプ村」の看板が写っている写真。左のほうに煙を吐いている汽車が写っている。おそらく、5~60年前の写真だろう。でも、そこに母の姿はなかった。もうひとつは、吹上浜にずらりと並んだ、パワーのありそうなオネータマたちの写真。みんなニコニコしている。なぜか、ずっと見ていても飽きない。やすらかな気持ちになれる、不思議な写真だ。母はぼくが幼少の時に死んだので、いつまでたっても若いままだ。うらやましい、そう思った。
19:20
夏のデスクトップ
おしまい
と、いうわけで、8月も今日で終わりだ。
あいかわらずなぼくの、あいかわらずな夏であった。
ような気がする。
食べたシロクマ・・・0個
(セイカの100円シロクマと200円シロクマを除く)
でね、
明日から9月だってよ。や~ね。
はじまり
終わらないことには始まらないように、
失わないと得られないものがある。
ここ数日、疲れているのは、そのせいだと。
終わることで、新しい、もっと気分のいい何かが始まるのだ。
今ぼくはそう思いたがっている。
赤い月
どうやら今日も、そうとう暑かったようだ。昼すぎにいらしたお客様によれば、実測38度あったという。ここ鹿児島市は、場所によって、ずいぶん気温が違う。当たり前なんだろうけど、ビルが密集しているところは暑いし、川や山の近くは案外涼しい。ぼくは街の中心から少し外れた団地に住んでいるが、街のほぼ中央にある店から家に向かって車を走らせていると、吹き込む風がみるみる涼しくなってくる。
さて、今夜は皆既月食だった。家に帰って屋上に上がると、すでに赤茶けた暗い月が山の上に浮かんでいた。三脚を立て、カメラをいじっていると、後ろのほうで声がする。お隣さんが、家族そろって窓から月を観察しているのだった。ぼくはパンツ姿であったが(ブリーフではない)、周囲は真っ暗なので、ぼくの姿はもちろん、パンツなど見えるはずもなかった。安心して写真を撮っていると、思いがけず後ろでフラッシュが光った。最近のカメラは月を撮るときもフラッシュが光るのだろうか。