明日は休みなので、夕食後、映画を見ることにした。
息子も見るというので、二人で見始めた。
その映画は「SAW」
見始めて15分後。
「この手はダメ、バイバイ」
と言って、ぼくは部屋を抜け出した。
その5分後、高3の息子も抜け出してきた。
近くて遠い
どこまでも歩いていったら、どこに着くのだろう。
そんなことを考えていたこどもの頃。
空が青い。青い空。とても遠い空。
髪が青く染まるくらい空を見つめ。
とけて空ににじんだアイスクリーム。
新しいケータイ
ケータイを新機種に換えることにした。これまでmovaを使ってたんだけど、FOMAにした。movaを使い続けていたワケは、単にサービスエリアが広いから。ぼくはドライブが好きなので、ヘンピなところでも、ピッ、とアンテナが立って欲しい。最近知ったのだけど、今ではFOMAのサービスエリアもそうとう広がっているようだ。そこで今回、FOMAをチョイスすることにした。カタログを見ると、その機能の多さにビックリ。うんざりするほどの多機能ぶりだ。カタログを見ているうちに頭痛が痛くなってきた。機能の少ない機種を探すと「らくらくホン」という、黄昏族仕様の製品に行き着く。今使っているケータイは、音楽が再生できるのだけど、4時間もしないうちに電池が切れる。情けない。ほとんど使い物にならない。
カタログをめくっていると、P903iという機種が目に留まった。70時間ぶっ通しで音楽を再生できるという。お、これなら使えるぞ、と思い、それを注文することにした。家に帰り、ネットでケータイの新機種を眺めていたら、SO903iという機種が俄かに気になりだした。余計な機能がないのがいいし、1ギガのメモリを内蔵してる。デザインも、セッケン箱みたいでキャワイイ。音楽も50時間再生できるという。さっそくNTTの知人に連絡し、こちらに変更してもらった。ただし、この機種はまだ市場に出てないそうだ。
黄色い炎の
初めてランプを買ったのは中学2年の時だった。なんに使うかといえば、洞窟や廃屋の探検、深夜の天体観測に使うのだった。センダンは双葉より芳し、というが、その頃既にぼくは暗い所が好きだったのである。そのランプは日本製で性能がよかった。というのは、こぞってマネをした友人たちのランプは中国製だったが、炎の形が悪く、暗かったのである。ぼくは一人優越感に浸った。幸せだった。ぼくは夜毎そのランプに火を灯し、部屋の明かりを消して音楽を聞いた。今思えば、ずいぶんシャレたマネをしていたものである。電気で灯る明かりは安全で便利だけど、生命感がないんだな。都市化とは管理できないものを排除していくことだろうけど、命(タマシイ)を排除したらなんもならんよね。人は生きるために生きてるんじゃないから。
架空の記憶
数名のお客様の相手をしてる時に電話が鳴った。
「いつもの豆を各1キロ、明日取りにきます」
相手はそういった。市内の喫茶店からだった。どうしたことか、ぼくはその注文をコロリと忘れてしまったのだった。それを思い出したのは、深夜、音楽を聞き終えて、プレーヤーからCDを取り出した時だった。ぼくは冷や汗が出た。あわててメモを取り、仕事着のポケットに入れた。明日はいつもより早く出勤し、余計に豆を焼かなくてはならない。翌朝、出勤して真っ先に電話のメモを調べた。注文を受けた形跡がない。妙だな、と思った。書いたメモを読み忘れることはあるが、メモを書き忘れることはないからだ。とりあえずぼくは注文どおりの豆をそろえ、お客様を待った。しかし、お客様はついに現れず、夜が来て閉店時間となった。これはどういうことだろう。昨日の電話は幻だったのか。ぼくは架空の記憶を思い出して、せっせと豆を焼いたというのか。ぼくはその喫茶店に電話をした。だれも出ない。閉店時間を過ぎたらしい。ぼくは不安になった。変な話、最近ぼくは奇妙な幻を見ることがある。そうだ、ぼくは壊れはじめているのだ。そう納得するに足る根拠がいつの間にか出揃っているのに気づき、ぼくは愕然とした。とにかく明日の朝一番で喫茶店に電話をしなくては。
小春日和
いい天気が続く。先ほどいらしたお客様は、いまから木市に行くとおっしゃってた。春と秋、川向こうの広場では恒例の植木市をやっている。子供の頃は、小銭を握ってよく行ったものだった。子供だから植木にはサッパリ興味がなく、めあては金魚、カメ、ヒヨコだった。カメは500円、ヒヨコは一匹20円だったと思う。カメや金魚を飼うのは比較的たやすい。初心者でもまずは大丈夫。一方、ヒヨコはけっこう難度が高く、マニア向けの仕様といえた。まず、すぐ死ぬ。めっぽう寒さにヨワイ。ぼくは何匹か死なせた経験がある。死んだヒヨコを、泣きながら一晩中暖めたのを憶えている。たまごっちが死んで泣く子がいるが、感情の出所は同じだろう。しかし、リセットが効かないぶん、ヒヨコの悲しみは切実であった。ヒヨコを買って帰ると、例外なく親にしかられた。ヒヨコは金魚やカメとは違う。金魚鉢では飼えない。すぐに大きくなり、いずれ小屋が要る。それがオスだった場合は悲惨だ。朝暗いうちから人の都合など省みず、けたたましい大音量で鳴く。鳴くなと叫んでも鳴きまくる。はなはだ近所迷惑な動物に変化するのだ。大人はそれを知っているからヒヨコを目の敵にする。かくいうぼくだって、ご多分に漏れない。
ところでぼくは、なにを言いたかったのだろう。
そうだ、ここ数年、木市に行ってないが、今もヒヨコは売っているのだろうか。
目覚まし時計
「おまえ、いいかげん、目を覚ましたらどうだ」
実現不可能なことをいつまでも追い続けていると、親友からこういうアリガタイ忠言を頂くことになる。
言うまでもないが、この場合の「目を覚ます」は睡眠から覚めることではない。ぼくもそうだが、ほとんどの人が、上記の意味では自分は目覚めている、と信じているはずだ。しかしどうだろう。自分がどこから来てどこに行くか知ってる人はいない。自分が何者なのかも分からない。そんなことを考える時、はたして自分は見るべきものが見え、聞こえるべきものが聞こえているのだろうかと訝ってしまう。もしや眠ってるのでは?と考えてしまう。こんなことを書くと、さっそく、「おまえ、なにを寝ぼけてるんだ、目を覚ませ」という声が聞こえてくる。
すごいこと
バルザックという作家はコーヒーを飲みすぎて死んだそうだ。
たぶん、ウソだろう。
ぼくは一日に10杯以上コーヒーを飲む。死にはしないが、日が沈む頃には疲れもあって、意識がふらつくことがある。うちの常連さんはよく知っているが、かなりの頻度でレジを打ち間違う。それと、これは最近気づいたのだが、「すごく」という言葉を乱発しているようだ。たとえば「きれい」を「すごくきれい」という。文章を書くときは、この点は特に気を遣っているのだが、おしゃべりになると、表現を強くしたいあまり「すごく」をつかってしまうらしい。しかし、これは使いすぎると、ぜんぜん「すごく」なくなるのである。
まね
星の王子さまを真似て、自分なりにカッコよく生きたいと思うのだが、うまくいかない。
それなら、あのとぼけた犬、スヌーピーを真似て、ほどほどにカッコよく生きたい、と思うが、案外できそうでできない。
カッコよく生きるのは難しい。
カウンター
ぼくはカウンターの内側で、コーヒーを点てたり、コーヒー豆を袋に詰めたりする。お客様は、カウンターの向こうに座って、コーヒーを飲む。もちろん、ここは喫茶店じゃないので、コーヒーを飲まずに、豆を買って、さっさと帰られるお客様のほうが多い。ぼくは、カウンターを挟んで、お客様とお話しする。カウンターは、ぼくからお客様を守り、お客様からぼくを守る。カウンターの奥行きは、お客様の体にぼくの手が届かない距離に算定されている。「なぜかここに座ると落ち着くのよね」などとおっしゃるお客様は多いが、その理由のひとつが、案外これである。お客様のボディーゾーンを侵さぬよう、気づかぬところに注意が払われているというわけだ。おかげで、気の弱いお客様も安心してくつろげる。そして今日も、一見、デリケートそうなお客様がカウンターの向こうで、必要以上に安心しきってコーヒーを飲まれていたのである。