手作りな人たち

Rosemary_01
ぼくはいつも言っている。
「ギョーザは手作りに限る」
そう、ぼくは病的に手作りが好きなのだ。
たとえば、家に帰って、テーブルにお菓子があった場合。
ぼくは家人にこう聞く。
「ねえコレ、手作りなの?」
「うん、○○さんが作ったの」
「へぇぇ~」
ぼくは喜んでそれを食べる。
しかし、
「○○で買ったの」
となると、ぼくは無言。手をつけないことが多い。
きょうも、お客様から焼きたての食パンを頂いた。もちろん手作り。美味しすぎて食べ始めたらとまらない。ひとりで全部食べてしまった。閉店後、病気で店に来れなくなったお客様の家に珈琲を配達した。帰りに彼女特製の手作りクッキーを頂いた。とても美味しかった。今フト思ったのだが、ぼくはもらってばかりいる。
さて、皇徳寺店で、Ms.ROSEMARYの季節の手仕事展が明日から始まる。展示を終えた今日、早速、手作りの茶香炉3つとお地蔵様が売れたそうだ。皇徳寺店の常連さんが趣味で作った手作りの陶器、コサージュなどの展示即売会。お近くの方は(遠くの方も)、ぜひ寄ってみてください。

ぼくの祭り

だれがそうしているのか知らないが、イヤな天気が続いている。まるで世界のネジを逆に巻いたような空だ。こんな日は、そう、踊るに限る。
おどろよBaby !
Dance!Dance!Dance!
踊れ、狂ったように
  —————————-
 考えてみると、常識というものは、人間の意識が元型の侵入を受けて混乱しないように、長い歴史をかけてつくりあげてきたようなものである。しかし、近代までは人間は常識のみならず儀式や祭りなどによって非日常の場を設定し、元型との対応をはかってきた。 — 中略 — しかし、近代になって自我=意識を尊重するあまり、そのような儀式や祭りを非合理なこととして排除したり、拒否したりしてしまった。その結果、元型的イメージが日常の世界において突如として個人に襲いかかるようなことになってきたのである。集団的な祭りをできなくなった現代人は、このために、個人として個人の祭りを日常生活を保ちつつ行うという難しい状況に立たされることになった。
 河合隼雄著「イメージの心理学」 イメージと元型 より引用

全世界は異郷のようなもの

「自分の故郷を愛おしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」
この言葉、フランスの中世の哲学者サン・ヴィクトルのフーゴーの言葉だそうです。
おととい、某新聞の「読書」欄に、ジョナサン・コット著『The Search for Omm Sety』(「オンム・セティを探して」)を翻訳した『転生 古代エジプトから甦った女考古学者』というノンフィクションが紹介されてました。ぼくはその内容に興味を持ち、さっそくネットで調べてみました。すると、この本の翻訳者のブログにたどり着き、その紹介記事を読んで、ますますこの本に興味を持ちました。そのブログの中で紹介されているのが、冒頭の言葉です。含蓄のある言葉だと思うのですが、それを深く味わうためにも、ぜひこの本を読んでみたいと思いました。

妙な喪失感

昨夜、田口ランディさんのブログで、彼女のお父さんが亡くなられたことを知った。1月4日だったそうだ。ぼくは驚き、そして、とても不思議な感じがした。ランディさんのブログはほぼ毎日チェックしていたのだけど、昨年末から更新が止まっていた。ランディさんの記事はメルマガ時代から愛読してたのだけど、特に彼女とお父さんとの格闘?を描いた記事はリアルで印象深かった。今思えば、田口さんのお父さんは「田口ランディ」に含まれていたような気がする。だから、ランディさんのお父さんが亡くなられたことを知ったとき、ぼくは「田口ランディ」も同時にいなくなったような気がしたのだった。これからランディさんはどうなるのだろう。ぼくにとって、田口ランディという作家は特別で不思議な存在だ。
田口ランディさんのHPはこちら
http://www.randy.jp/

ぼくの物語

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トイレで、ふと思った。
主人公はトイレでも主人公なのだ。
だからトイレの時間もいとおしい。
ぼくの物語はこうして紡がれていく。
ときに主人公をやめたくなるときがある。
そんなときは他人の物語にもぐりこむ。
テレビをつける、小説を読む。
たまにはそれもいい。勉強にもなる。
でも、自分が物語の主人公だってことを忘れてはいけない。
自分で選び、それを受け入れよ。

太陽は一人ぼっち

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今日はまじめだった。
まず、コーヒーをまじめにいれた。
すると、思ったとおり、いつもよりうまかった。
しかし、まじめに生きるのは難しい。
明日からは毎日まじめに生きようと思う。
まじめだと、こういうことを平気で書けるから不思議だ。
まじめだと、うそをつくこともできない。
だからこうして本当のことを書いている。
本当のことはつまらない。

幸せの階段

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その階段は、幸せにたどりつく階段。
人は喜んでその階段を上るだろう。
しかし階段は永遠に続き、決してたどり着かない。
でもそれが幸せの階段。