星空

昨夜は、空気が澄んでいたのか、星がきれいでした。
さそり座のSの字が南の空の横たわり、アンタレスの上で木星が輝いていました。
ぼくはベンチに寝そべって、ぼーっと空を見てたんですが、流星を三つ見ました。
こんなことを書くと、やっぱりコイツはアホだ、と思われるでしょうが、どうせアホなので書きます。
「オンナなんかより、星空のほうがずっと神秘的ですごいや」
ぼくは心からそう思って、星空を眺めながら感動してたんです。
オンナと星空を比べるのはおかしいと思うのですけど。
今夜も、雲が晴れたら星を見ます。

平凡

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午後、店の屋上に上がってみた。ナスの花が咲き、ニガウリのつるが風に揺れていた。ここでは、毎年今頃になると、同じ風景が狂いなく再現される。年老いた一人の男が、屋上の小さな畑に、毎年飽く事なくナスとニガウリを植えている。
070620_02そうして来年も再来年もナスの花は咲き、ニガウリのつるは風に揺れる。それは永遠に続くかにみえる幻の風景。
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ファーブルな午後

昨日は一昨日に引き続き休日であった。珍しくショッピングセンターに買い物に出かけた。レジの近くでぼんやりしていると、突然、小さな女の子が大声で泣きだした。迷子であった。ぼくは久しぶりに本物の迷子を見た。その数分後、どこからか母親が駆け寄ってきて感動の対面があった。ちょっとしたドラマであった。家に帰って、屋上でぼんやり雲を見ていた。雲はいつまで見ていても飽きることがない。ファーブルは一日中道端にしゃがんでアリを見ていたという。ときに、老人が同じところをじっと見つめたまま動かないことがある。ぼけているのかもしれないし、案外、死んでるのかもしれない。ぼくはだいじょうぶだろうか。

ちゃぶ台

わが家にはタタミがない。
タタミがないと、ちゃぶ台が置けない。
ちゃぶ台がないと、ちゃぶ台返しができない。
といって、ちゃぶ台返しをする勇気はない。
ちゃぶ台で食うスイカはうまい。
ちゃぶ台で食うザルソバもうまい。
金鳥の夏、日本の夏
そういえばそろそろ蚊の季節ですね。
蚊取り線香の準備はお済でしょうか。

第三日曜

仕事が嫌いな人の休日と、仕事がおもしろくてしょうがない人の休日はどうちがうだろう、などと、メンドウなことを考えるのはよそう。明日は第三日曜日なので、休みます。

三日目

臆面もなくインテリぶったエントリーは続く。
つもりだったが、インテリのまねはけっこう疲れるので、今日はやめることにした。今日も朝から雨が降っている。これで三日目だ。おとといは、久しぶりの雨を喜んでいた。しかし今日はうんざりしている。こういう勝手なぼくが、ぼくは好きだ。

無音の音

先日、ビデオでアルゲリッチの弾くバルトーク第3番を見ていて妙な感じがした。二楽章、ピアノの無音部分に聞こえない音を感じた。たぶん、ビールのせいだろうけど(笑)
おとといの夜、茂木健一郎さんのブログで、作曲家、江村哲二さんが亡くなったのを知った。そのときは、茂木さんは当然、江村さんの病状を知っていたのだと思っていた。ところが昨夜、茂木さんのブログを読んで驚いた。茂木さんも関係者も知らなかったというのだ。
以下、クオリア日記6月13日「想い出」より引用
サントリー音楽財団の佐々木亮さんから
お知らせを受けたのは月曜の夜で、
あまりのことに呆然となった。
入院されたとは聞いていたが、
まさかそれほど重い病気とは知らなかった。
ご家族はご存じだったのだろうが、
私たち関係者は誰も知らなかった。
「あの方は、そういう人なんですよ」
と佐々木亮さんは言う。
「初演を成功させることだけを祈って、
黙っていたんでしょう」
他人のぼくが驚いたくらいだから、茂木さんの驚きはそうとうなものだったと思う。
江村さんの静かな死は、なぜかぼくの胸を強く打った。ふとぼくは思った。表現者として世阿弥は「秘すれば花」といった。江村さんは作曲者だ。無音に音を聞く人なら、死を活きることを特別なこととは思わなかっただろうと。

確率

昨夜、いつものようにお気に入りブログを巡っていると、某脳科学者のブログで、ある作曲家が亡くなったことを知った。つい先日、彼の最近の対談を読んだばかりだったせいか、妙に生々しく感じられ、しばし呆然となった。47才。すい臓癌。ぼくは普段、死を意識することがない。ぼくは死なないんじゃないか、とさえ思っている。このまえ読んだ五木寛之著「林住期」によれば、死神は前からはやってこず、不意にうしろから肩をたたくのだそうだ。彼の死を知ったとき、ふと思った。なぜぼくじゃなかったのか。

プロムナード

昨日は月曜日で休みだった。ぼくは血圧が低いせいか、目が覚めてもしばらくパァである。パァなまま机のパソコンに向かい、「月曜日は休んでます」という文字を、かなりの時間をかけてやっと掲示板に打ち込み、送信ボタンをプッシュ。エラー。よくあることなので気にせずリトライ。成功。掲示板の「月曜日は お店休んでます….. 」という文字をしばらくぼんやり見つめていると、不意にケータイが鳴った。
 Sub 南薩
本日も出勤でっか?
当ブログにも時々コメントしてくださるE氏であった。予定では、県道17号線(指宿スカイライン)を南下、川辺ICの先にある 錦江台展望公園 のアジサイをチェックすることになっている。
 Sub Re:南薩
まず、イブスカの椿の郷に行って、それから考えようと思ってますがよ
と、ぼくは返事した。すると
 Sub Re:Re:南薩
ぼくもイブスカを流す予定です
そんなわけで、ぼくらは錦江台展望公園で落ち合った。なお、錦江台展望公園は椿が林をなしているので、以前は「椿の郷」と呼ばれていた(ような気がする)。つり橋の下に群生しているアジサイはまだ五分咲き。広葉樹の枝が重なり合う薄暗い小道をブラブラ歩く二人の男。その会話は植物や昆虫のことばかり。遠くで、そして近くでウグイスが鳴く。ふいに木々がざわめき、風が通りぬける。アリストテレスとその弟子たちは、道をブラブラ歩きながらよく議論したそうだ。たしかに歩きながらだと、話にリズムが出るためか、話が弾み、よく展開する。やがてぼくらは小高い開けた場所に到着し、岩に腰掛けてコーヒーを飲んだ。鳥の声、風の音。ここはとても静かなところだ。
070611

天然な人たち

昨夜、田口ランディのブログを読んでいて、思わずにんまりしてしまった。以下、引用
・・・「今日は暑いから、なんかさっぱりしたもん食べたいね?」などと言い、駄菓子屋のアイスなどを、「うめ?」とか言って立ち食いするような人といると、妙にほっとする。・・・
いや~、その気持ち、よくわかるなぁ~。田口さんの本音っぽいトークは身近なリアリティがあって、チョ~おもしろい。たまにぼくも、一見、ストレート風、本音っぽいことをブログに書き付けるけど、文章を使って自分の気持ちをストレートに表現するのって、スゴク難しい。本音らしく見せるために、かなり演出、脚色している(笑) ところで、いまだに「真空管アンプの音は柔らかくて温かい」といって、真空管にこだわり続ける人がいる。これは単なる懐古趣味ではない。真空管アンプが人間味のある温かい音を出すのには、ちゃんとした理由がある。真空管アンプには音声信号に負帰還(ネガティブ・フィードバック)をかけなくても使える素性の良さがあるのだ。アンプは負帰還をかけることで歪がグンと減る。行儀よくなる。コストをかけずに音を良くするなら、負帰還をかけるに限る。だから、市販されているアンプのほとんどが負帰還アンプである。ただし、音はそっけなくなるというか、精彩にかけるというか、おとなしく他人行儀になりがちである。行儀を取るか、歪を取るか…。マニアは歪を取る。(なんちゃって)
ふつう、だれだって人としゃべるときは自分の言葉にフィードバックをかけ、つまり客観性を持たせてコントロールしている。(自分自身とのコミュニケーションにもフィードバックをかけている)どこかの政治家ではないが、思ったまましゃべると、えらいことになる。本音トークを得意とする人たちは、フィードバックのかけ方が絶妙なのだ。これは真剣勝負の寸止めと似たテクニックであり、途方もないエネルギーと技を要するのである。かも。
フィードバックをかけずにコミュニケーションする人たちがいる。ぼくはこの人たちを「天然」と呼んで大事にしている。そのせいか、ぼくの周りは天然だらけだ。