揺れるまなざし

商品を仕入れていると、たまに間違った納品書が送られてくることがある。数量や単価の誤記がほとんどで、多くの場合、放っておくと損をするのはこちらだ。商品は届いたものの、代金が請求されないこともある。放っておくと泥棒になるので、しぶしぶ自己申告することになる。その額は今思いつくだけでも2~30万を下らない。実は、数日前送ってきた納品書に誤りがあった。数量の誤記である。放っておくと、ぼくは数万円得をすることになる。もちろん申告するのだが、この場合、これがその担当者以外の社員に知れると彼の立場が悪くなるので、本人の携帯に直接電話かメールをすることになる。で、今回は電話代がもったいないのでメールを送った。
「おい、納品書、間違ってるで」
丸1日経ったが返事は返ってこない。担当者の顔が浮かんだ。その瞳の奥で小さな光が揺らぐ。その時ふと、ぼくは奇妙な考えに捕らわれた。ぼくは貢がれているのではないだろうか。

飲んでる?

Yebisu_01
ここ数日、本はずんずん読めるのだけど、何か書こうと思ってパソコンに向かうと、なーんにも書けない。アタマがコチコチに固まってるようだ。こんなときは、無理に書かないほうがいい。そんなわけで、いま、ビール飲んでますがよ。

キンカン・ダイエット

Kinkan_01お客さんからキンカンをもらった。今朝ちぎったばかりだと言う。ぼくはキンカンが好きなのだけど、キンカンを食べない人は意外と多い。酸っぱいせいかもしれない。ぼくは種ごと全部食べる。もらったキンカンは50個以上あったと思うのだけど、腹が減ってたので、すぐになくなってしまった。

噴水のある風景

Kitafutou2「そううつだもの」のあやさんが店に持ってこられた写真が忘れられない。その時あやさんが見せてくれたのは、ピンホールカメラとSFX MAKERという2種類の変なカメラで撮った不思議な写真だった。左の写真はピンホールカメラで撮ったもの(無断で載せてゴメン)。
あやさんのブログにはアップされてないが、同じ噴水の風景を「SFX MAKER」というカメラで撮ったものが、ぼくは忘れられない。その写真もこの写真と同様、風景全体が盛大なフレアとゴーストに覆われている。しばらく見つめていると、その光がまるで日常の知覚を越えて届く霊的なエネルギーのように感じられてくる。写真は止まっているのに、噴水が動いているように見える。時間感覚を狂わせられたぼくは、フラッシュバックしながら遠い昔に落ちていった。

おもしろいもの

ほんの一時期だけど、テレビゲームにハマったことがあった。もう10年近く前。今のテレビゲームはもっとおもしろいのだろうと思う。人の脳には退屈を嫌う性癖がある。たとえば人は長時間、何もない狭い部屋に閉じ込められると幻覚を見るようになる。ぼくは巨大な虫の幻覚を見て死ぬほど驚いたことがある。これは、脳がありもしない像や音を勝手に創作し、それを外部からの情報として自らに知覚させることで起こる現象だ。脳は自らを退屈から救うために一人芝居を打つのである。自分の持ち主を驚かせて喜ぶなど、まったく奇妙なふるまいであるが、それほどまでに脳は退屈を嫌う。子供はじっとしていない。退屈が大嫌いだ。脳が活発に活動しているからである。ぼくが子供のころには、テレビゲームなんてなかった。退屈退治のために、山や川に出かけなくてはならなかった。そこには予測不可能な危険が常に待ち受けていた。野良犬、毒虫、蛇、がけっぷち、高波、ジョーズ。退屈退治は命がけであった。カアチャンに見つかったら大目玉を食らうからである。しかし、もし当時、ぼくの家にテレビゲームがあったら、どうだっただろう。ぼくだって、母親に大目玉を食らってまで洞窟探検や、遊泳禁止の海で遊んだりはしなかっただろう。スイッチを入れれば、簡単に退屈をしのげるのだから。洞窟探検や遊泳禁止の海は、まさに死ぬほどおもしろいのだが、現場に達するまでの手続きが面倒であった。不良仲間を募ったり、理科室から太いローソクをネコババしなくてはならなかったのである。脳は性急である。待つのが大嫌いだ。そこにいくと、テレビゲームは手軽だ。スイッチポン、ですぐに佳境に達することができる。しかし、ここにワナが潜んでいる。洞窟探検や海遊びは下手をすると死ぬ。テレビゲームは、なかなか死ねない。リスクのない遊びは死んだ遊びだと思う。だったらどうするか。たとえば、勝ち負けを競うなら、金を賭けるのである。罰ゲームを準備するのである。するとどうなるか。PTAが騒ぐのである。母親が怒り狂うのだ。想像しただけで恐ろしい。そういえば、河合隼雄は日本は母性の国だ、といっていた。と、ここで、話しが脱線しているのに気づいた。ぼくはナニを言いたかったのか。テレビの話しであった。さっき、あきこさんのブログを読んで、思わずこんなことを書き始めてしまったのである。おそらくテレビは日本の子供や奥様たちの退屈を救っているのだと思う。見かけ上の平和はこのようにして保たれているのだ。たとえば奥様の場合、ダンナといるより、テレビを見てるほうがずっと楽しい。かもしれない。こう書くと、ダンナに問題がありそうだが、そうともいえない。どう見てもテレビ相手じゃダンナが不利である。テレビは妙にやさしくなれなれしい。笑わせるのも得意である。スイッチポン、で、文句も言わない。そこでぼくは言う。奥さん、テレビを消してください。するとどうなるか。強力なライバルがいなくなることで、とりあえず、ダンナが浮上する。おもしろく見えてくる…可能性は…やっぱりないかもね。

理性の限界

ぼくらが住むこの世界にはまったく異なった自然観を持つ二通りの人間が隣同士で暮らしている、などというキャッチでブログを書き出せるのは、ここが日本だからだ。日本人が書いた記事をよんでいると、しばしば「科学が神を滅ぼして久しいが…」などと平然と書かれた文章に出会う。神は存在しないというのが常識的日本人間での当然の了解事になっているらしい。もしかすると、今の日本人の大半は神の存在を信じていない。特に、世の創造者としての具体的な神は、スーパーマン以上に荒唐無稽な存在とされている可能性がある。昨年映画になった、あのダビンチコードを読んだ標準的日本人は、その舞台がまさに遠い異国の地であることを実感されたに違いない。少なくとも、そもそもカミサマなど、見えもしない曖昧なものを真剣に考えること自体アホらしい、と考える人にとって、キリスト教という宗教そのものを主題に据えてクソマジメに展開していくストーリーには、かなりの違和感が立ち上がったはずだ。信じられないことだが(笑)、ヨーロッパには、天地の創造者としての神や、救世主キリストをまったく本気で信じている人がイッパイいるのである。もしかするとあなたは、そういう人たちを、バカげた奇跡や迷信じみたことを未だに本気で信じている、近代科学に暗い、時代遅れの連中と見なして笑うかもしれない。しかし、いうまでもなくレオナルド・ダビンチ自身、傑出した科学者であるし、ストーリーの後半で暗号解読のカギを担うニュートンは近代精密科学の祖といわれている。ここで、ニュートンの自然観について書かれた記事を紹介します。
十七世紀の中旬にイギリスに生まれたニュートンは、天体の動きを含めた自然科学現象に物理法則を見出し、近代科学に多大な影響を与えたが、彼の科学的な姿勢の根本には神に対する絶対の信頼があった。神によって天体が完全な場所に配置されているからこそ、そこに一貫した法則が導き出される。人間の科学的研究は、神が創造した自然の中に神の意を読み取ろうとする努力であり、すなわち、自然は第二の聖書であった。
(雑誌、風の旅人4号スティーブン・ジョンストン「ターナー」より抜粋)
ついでに(笑)、以上のことをブログに書きたくなったきっかけになった記事を以下に記します。出典は同じく「ターナー」
困難の中、自分を前向きに推進させる力は、自らの内部に湧き起こる驚き、感動、憧れ、畏れなど、宗教的とも言える情感を必要とする。それはセンチメンタルなものではなく、人間の理性と敵対するものでもなく、理性の限界を自覚した時に人間をさらなる高みに導く霊的な直感と想像力の賜だ。

生活のにおい

昨日、午前中にいらしたお客様からこう言われた。
「あなたには生活感がまったくないですね」
初めていらした方で、おそらくぼくより一回り上と思われる、ときおりキラリと光る目が印象的なご婦人だった。それはドミニカ田畑農園コーヒーの由来を説明している最中のことだった。移民政策に興味を持っておられ、事実、ドミニカ問題に詳しかった。要点を無駄なくストレートに話されるのだが、自然な笑顔から程よいテンポで繰り出される言葉は平明で分かりやすく、好感をもたれる話し方の見本のようであった。話の途中で分かったのだが、彼女は長い間教師をされていたとのことだった。
生活感がない、とは、たびたび言われることだし、ぼくは、どちらかといえば良い意味にとらえていた。しかし、この日、ぼくは再び同じ言葉を聞くことになった。「生活感がないですね」。やはり初めていらしたご婦人からだった。ここでぼくは不安になった。その言葉に、
「あなたには大事なものが欠けてますよ」
というニュアンスを感じ取ったからだ。
ぼくは午前中のお客様を思い出した。
「あなたには生活感がまったくないですね」
この「まったく」と強調した部分に、何かしら引っかかるものがあり、気になっていたのだった。今思えばそれは諫める含みがあった気がする。長年教師を勤めていると、相手に明らかな問題点を発見した場合、われ知らず注意を促してしまうのではないだろうか。もちろんそれは相手のためを思ってのことであり、それが人の務めと信じている…いわゆる職業的良心。もしそうだとしたら、ぼくは行動を起こさなければならないだろう。ぼくのためを思って教えてくださったのだから。

再起動

当ブログは10日前にweb上から消滅させました。
理由は、ぼくが尊敬している方(仮にAさんとしておきます)からの心のこもった忠告でした。ブログはやめなさい、と、はっきりいわれたのです。ぼくのブログの内容に問題があるというのではなく、一個人のコミュニケーション手段としてのブログには、いくつかの重大な問題が潜んでいる、というものでした。その席で、その問題についていろいろお話を伺ったのですが、結局ぼくには分からずじまいだったのです。でも、なんとなく、ぼんやりとでしたが、このまま続けるのは自分のためによくない、という気分になり、衝動的にweb上から消滅させました。いまだによく理解できてないのですが、いまの時点で理解した範囲でおおまかに書いてみます。ブログの使い道はさまざまでしょうが、ぼくは日記ブログというスタイルで不特定多数の読者を想定して発信していました。「不特定多数に発信」と、簡単に言い切りましたが、これはインターネットが普及したからこそ可能になったことで、元来、不特定多数に発信できるのは巨大な機構と組織を持つ、限られた権威だけだったのです。不特定多数の大衆に情報を流通させる社会的伝達手段、これはマスコミュニケーションの定義です。ぼくはブログを用い、マスコミュニケーションを図っていたわけです。ぼくのような一個人が、マスコミュニケーション行為を習慣化するとどうなるのでしょう。ぼくはそれを毎日欠かさず約二年間やってきました。ぼくの中で、どういう変化が起こっているのか。習慣は大きな力を持ちます。最近ぼくは、右上のカウンターの数字を気にするようになってきていました。数字が伸びるとうれしかったのです。テレビ局が視聴率を、新聞や雑誌が購読者数を気にするのと同じように。ここに、ぼくのブログのマスメディアとしての片鱗が顔をのぞかせているように思います。約十日間、ぼくは考えました。伝達内容が画一化され、間接的、一方的になるという問題はしかたないにしても、マスメディアの持つ一種の特権意識というか、傲慢さが知らず知らずに自分の中に育ってきていやしないか。一対一の人間関係においても、気づかずに傲慢な態度で臨み、コミュニケーションのディテールをおろそかにしはじめてはいないか。
Aさんは、対人関係の感性がディテールを失い、マスメディア化する危険性を危惧し、忠告されたのではないか、と自分なりに今考えているところです。まだ結論が出たわけではありませんが、十日前とは違う心持でブログに臨めると思えたので、今こうして再び書き始めました。自分の感性は自分で守らなければならないし、感性はかけがえのない、きわめて大切なものであるという認識は常にあります。ぼくはブログを書くことで自分の考えをまとめ、それを再度自分で確認し、客観的に評価するという作業に面白みを感じてます。このようなルーチンで自分との対話を行っているともいえます。そしてweb上に公開するスリルは…病み付きです。

ありがとうございました

自分でも驚いているのですが、数日前からこのブログに対する興味が薄れ始め、ついに書けなくなってしまいました。自分の内側で何かが変わってしまったようです。これまでぼくの拙い文章を読んでくださった皆様、ありがとうございました。
当ブログは数日中にweb上から消滅します。リンクしてくださった方にはご面倒をおかけしますが、解除してくださるようお願いします。

くもりガラス

1月4日は何の日か
ぼくの冬休みが終わる日である
折りしも外は雨。空は暗い灰色。ぼくのココロはblue.
くもりガラスに映ったぼくの横顔。微熱少年
だめだ
微熱少年モードで書くと、カウンターの数字は急落する
やめよう、今年は
さらば微熱少年
   ——- BGM Sting Fragile ——-