二度は死ねない

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某F少年から借りていた、映画「めがね」を見た。舞台は、とある南の島。そこはケータイの電波も届かない、なんにもない。でも、浜辺では、変なオバサンがカキ氷を売っている、かもしれない。ぼくは海のそばの某レストランに行く。変なオジサンがコーヒーを飲ましてくれる。でも、最近、閉まっていることが多い。ケータイの電波が届くようになったからだろうか。気が向いたら自分でも生きてみるべ

人の心を持ったサルは人間か

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「むかしね、テレビの日曜洋画劇場でこんな映画があったんだけど、だれに聞いても分かんなくて、見たくても見ることができないんですよ」お客さんはカウンターにカップを置くと、残念そうに首を振った。彼は天気のよい休日、手入れの行き届いた古いバイクで、一人、山道を走り、その帰りにコーヒーを買いにくる。「車は海へ走るのがいいですが、バイクは山ですよ」彼の美学ではそうなってるらしかった。彼が帰ったあと、ぼくは彼から聞いた映画の内容をもとにネットで検索してみた。案外簡単に見つかった。ジャージ・コジンスキー原作「Being There」(邦題 チャンス)。主演ピーター・セラーズ。翌日、店にいらした映画通の常連さんに、こんな映画があるらしいですよ、と話すと、早速ツタヤで借りてきてくださった。観てみるとなかなかおもしろい。この映画、現代社会を風刺したユーモアたっぷりのコメディとして十分楽しむことができる。でも、一たび主人公の立場に立って、その深い孤独に目をやると、この作品の持つ別な面が見えてくる。その孤独は、主人公が知能発達不良とも受け取れる「純粋無垢な心」を持ち続けていることに由来する孤立に見える。純粋無垢な心とはなんだろう。聖書にある「神は自分に似せて人を作られた」時点における「穢れない心」だろうか。もしそうなら、主人公はこの現代社会にあって神そっくりのまま振舞っているのだ。ぼくの解釈は飛躍しすぎかもしれない。でも、この作品をそういう視点で見ると、奇妙なラストシーンを含め、いくつかの違和感が解消される。聖書の記述によればイエスを真に理解するものはついぞ現われない。というより、定義的に人はだれも神を理解できない。しかしイエスは言う。「だれでも私につまずかないものは幸いです」。イエスは人として生まれたが、人の中にあって孤独だった。さて、翻って、映画チャンス。この映画の鑑賞者は主人公チャンスをどのように見るだろう。知能レベルの低い子供のような男と見るか、それともそこに「神に似せて作られた者」を見るのか。作者はぼくらにこう言っているように思える。
「だれでも彼につまずかないものは幸いです」

愛を描かないから見えてくるなにか

昨夜、久しぶりにおもしろい映画を見た。
それは「パフューム
この物語の主題に人の愛はない。人のいう愛をイメージするものは描かれていない。匂いや音、光のリズムは言葉を介さず、人の識閾下に直に訴えてくる。神の愛は、人が人である限り理解できない。言葉で捉えられない。理解できないが、感得できる。そう、ゆえに、この映画が醸し出す奇妙なおもしろさは名状しがたい。
つまり、観るしかない。

いつものように幕が開き

070825_01土日といえば変わったお客さんが多い。ような気がとてもする。言うまでもないが、変わっているという判断はぼくの主観によるもので、普遍的な基準に基づくものではない。
「ぼくのブログに写真を貼って、彼女を募集してみるってのは、どう?」
常連のお客さんに、ぼくは冗談半分に提案してみた。
「いいね」と、彼は言い、
「でも、若い女の子とか見てるの?そのブログ」
と付け加えた。
「たぶんね」
ぼくは言った。
「ふーん。じゃあ」
と、彼はメモになにやら書きつけ、ぼくによこした。
「なにか反応があったら、ここにメールして」
つまり、上の写真はそういうわけなのであった。
さて、今夜は常連のお客様Kさん宅で食事会。ぼくは、Kさんちの音のいいオーディオ装置で、ちあきなおみを聞くのを楽しみにしていたのだった。Kさんちのオーディオ装置で聞く ちあきなおみは、ぼくの知らない ちあきなおみだった。スポットを浴びた彼女が、まるで幽霊のようにスピーカーの間に浮かび上がり、ひたすら愛する人に歌を捧げていた。そのひたむきな姿に、ぼくは胸が熱くなった。かなり酔っていたせいか、こんな言葉が頭に浮かび、ぼくは切なくなった。女は女であることから逃れられない。

らくだ

昨日は定休日だった。天気が良ければ南に桜を見に行くつもりだったが、あいにく外は冷たい雨。そこで爆弾製造犯よろしく、昼間っから雨戸を閉ざし、鍵をかけ、暗く密かに映画を見ることにした。見たのはチト古いが、アラビアのロレンス。以前NHK-hvで放映されたのを録画しておいたもの。ほとんどの映画は2時間程度で終わるが、コレは4時間近い大作。いい映画だった。舞台はサハラ砂漠。サハラ砂漠を走るラクダが、うっとりするほどカッコいい。ラクダがこれほど美しい動物だったとは。動物園のラクダも、砂漠に放せばあんなふうに走るのだろうか。

地デジを洗う

070312お客さんから「ちあきなおみを録画してあるんだけど、見ます?」とのメールがあった。もちろん「見るぅ~」と、即答。というわけで、ちあきなおみの特集を録画したDVDをありがたく頂戴することになった。地デジからのコピーワンスなので、お客さんのレコーダーからは消えてしまうことになる。貴重なDVD、ありがとうございます。さっそく部屋を暗くして鑑賞。アニマルズがヒットさせた「朝日のあたる家」を熱唱するちあきなおみ。う~ん、すばらしい。画質もgood!ぼくは地上波をバカにして地デジのケーブルをレコーダーにつないでなかったのだけど、この画質なら録画する価値があるカモ。と、さっそくケーブルTVのアンテナをつないでみた。ぼくは今日までBSアンテナしかつないでなかったのだ。驚いた。地上波とは思えないクリアな画質。初めて見る地デジは、思った以上に高品質であった。地デジの番組表を見ると、NHK総合22時から小椋佳63歳のメッセージ、という番組があったので、さっそくこれを予約。なんか得をした気分であった。地デジのあとは、血で血を洗うマフィアの抗争を描いた「ゴッドファーザー」を見た。恥ずかしながら、ぼくはこの傑作を未だに見ていなかったのだ。先日放送されたNHK-BSの録画を見たのだが、緻密なつくりで見ごたえがあった。おそらくTVで何度も放映されたのだろうが、ぼくは見ていない。初めての鑑賞が大きな画面だったことは、幸運だったような気もする。

SAYURI

昨夜はF少年から借りた、スピルバーグ監督のSAYURIをみた。舞台は第二次世界大戦中の京都。なのだが、なぜかぼくの中では、どうしても京都になってくれない。すぐに近未来のサイバー都市になってしまう。「ここは日本の京都なんだ」と何度自分にいいきかせても、ブレードランナー的な未来都市に落ち着いてしまうのだ。たぶん吹替えなしで見たせいだろうが、それにしても、ぼくのアタマって変。芸者物語としても十分楽しめたが、環境BGV風に使ってもおもしろそう。
夜。窓をたたく雨。明かりを落とした部屋でカクテルを傾ける二人。 BGVはSAYURI。 もちろん、吹替え、字幕スーパーなしで。

コワイ映画

明日は休みなので、夕食後、映画を見ることにした。
息子も見るというので、二人で見始めた。
その映画は「SAW」
見始めて15分後。
「この手はダメ、バイバイ」
と言って、ぼくは部屋を抜け出した。
その5分後、高3の息子も抜け出してきた。

灰色の夕焼け

昨夜はH・フォンダの「怒りの葡萄」という映画を見た。古い映画は、たいてい白黒である。劇中、スクリーンいっぱいに夕焼けが映し出された。当然、白と黒と灰の夕焼けである。驚くほど違和感があった。ぼくはあっけなく現実世界に引戻されてしまい、気がつくと暗い部屋のソファに座っていた。想像力の貧困が原因なのだろう。ぼくの中では、夕焼けは赤くなくてはならないらしい。

パラレルワールド

F氏から借りたMr.&Mrs.スミスというDVDを見たあと、Tさんから借りた「ニューシネマパラダイス」劇場公開版を見た。デジタルリマスターということで、色乗りがよく、フィルムライクな美しい映像で楽しめた。大きな画面で観るなら断然こちらがいい。
以前、このブログでも取り上げたのだけど、「ニューシネマパラダイス」には劇場公開版とオリジナル版が存在する。ぼくはオリジナル版を見ての感想をブログに書き、劇場版も見るぞ、と、宣言した。さて、今夜ついにその劇場公開版を見たわけだが…
結論から言うと、ぼくはだれがなんといおうと、オリジナル版が好きだ。圧倒的に。
劇場公開版は、トト少年と映画技師アルフレードの美しい友情の物語。トト少年が社会的な成功を収めたのは、ひとえにアルフレードの純朴で一途な友情のおかげだった、という感動のストーリー。ヨーロッパ映画にしては、明るくシンプルで、雲ひとつない青空を見るようなハッピーエンド。これはこれで、いい映画なのだけど…
映画の冒頭、ジャックペラン演じるトトは夜の都会を高級車に乗って現れ、豪奢な住まいに帰り着く。ベッドでは若く美しい女が寝息を立てている。が、しかし、ペランの横顔は幸せな男のそれではない(という演技をしている)。社会的に成功している男。富と誉れを手に入れた男。だのに、その顔に宿る深い陰。そういう構図を観客に印象付けてこの物語は始まる。帰郷しての、年老いた母との会話のシーンは特に重要だ。ぼくはここで涙が出るほど感動した。母は息子の幸せを願っている。当たり前かもしれない。母は息子の悩みを見抜いていた。今の息子が決して幸せではないことを。彼女は息子の性格を知り尽くしているのだ。社会での成功者が人生の成功者とは限らない。他人の目から見ればトトは成功者であり、しあわせ者だ。しかし、母の目にはそう映っていない。真の幸せとは。人生とは。
映画のラストで、トトはアルフレードによって切り取られたキスシーンを見ながら笑い始める。トトは気付いたのだ。キスシーンを切り取られた映画。それはまさに自分の人生そのもの。皮肉にもアルフレードはトトの人生からもラブストーリーのクライマックスを切り取ったのだ。これは笑うしかない。いやー、恐ろしいオチだった。あいかわらずフランス映画は残酷でおもしろい。
ただし、このヨーロッパ的な笑いはオリジナル版を見ないと分からないよ、ウヒヒ。と、暗にオリジナル版を勧めているぼく。