理性の限界

ぼくらが住むこの世界にはまったく異なった自然観を持つ二通りの人間が隣同士で暮らしている、などというキャッチでブログを書き出せるのは、ここが日本だからだ。日本人が書いた記事をよんでいると、しばしば「科学が神を滅ぼして久しいが…」などと平然と書かれた文章に出会う。神は存在しないというのが常識的日本人間での当然の了解事になっているらしい。もしかすると、今の日本人の大半は神の存在を信じていない。特に、世の創造者としての具体的な神は、スーパーマン以上に荒唐無稽な存在とされている可能性がある。昨年映画になった、あのダビンチコードを読んだ標準的日本人は、その舞台がまさに遠い異国の地であることを実感されたに違いない。少なくとも、そもそもカミサマなど、見えもしない曖昧なものを真剣に考えること自体アホらしい、と考える人にとって、キリスト教という宗教そのものを主題に据えてクソマジメに展開していくストーリーには、かなりの違和感が立ち上がったはずだ。信じられないことだが(笑)、ヨーロッパには、天地の創造者としての神や、救世主キリストをまったく本気で信じている人がイッパイいるのである。もしかするとあなたは、そういう人たちを、バカげた奇跡や迷信じみたことを未だに本気で信じている、近代科学に暗い、時代遅れの連中と見なして笑うかもしれない。しかし、いうまでもなくレオナルド・ダビンチ自身、傑出した科学者であるし、ストーリーの後半で暗号解読のカギを担うニュートンは近代精密科学の祖といわれている。ここで、ニュートンの自然観について書かれた記事を紹介します。
十七世紀の中旬にイギリスに生まれたニュートンは、天体の動きを含めた自然科学現象に物理法則を見出し、近代科学に多大な影響を与えたが、彼の科学的な姿勢の根本には神に対する絶対の信頼があった。神によって天体が完全な場所に配置されているからこそ、そこに一貫した法則が導き出される。人間の科学的研究は、神が創造した自然の中に神の意を読み取ろうとする努力であり、すなわち、自然は第二の聖書であった。
(雑誌、風の旅人4号スティーブン・ジョンストン「ターナー」より抜粋)
ついでに(笑)、以上のことをブログに書きたくなったきっかけになった記事を以下に記します。出典は同じく「ターナー」
困難の中、自分を前向きに推進させる力は、自らの内部に湧き起こる驚き、感動、憧れ、畏れなど、宗教的とも言える情感を必要とする。それはセンチメンタルなものではなく、人間の理性と敵対するものでもなく、理性の限界を自覚した時に人間をさらなる高みに導く霊的な直感と想像力の賜だ。

“理性の限界” への4件の返信

  1. いいですねー、この記事。
    私もこういうことを文章にしたいんだけど、まだまだ未熟です。
    あとでメールしまーす(^^)/

  2. 風の旅人っていう雑誌を読み続けてるんですけど、時々、ハッとさせる文章に出会って、うれしくなることがあります。「理性の限界を自覚した時に」って言葉、最近忘れがちな、畏怖の念を再認識させますよね。理性的に(笑)

  3. 宇宙と世界には物質の自立運動があり、それしかないと考えるのも一つの考えですし、神が無から世界を作ったと考えるのも一つの考えですね。この神を理性的に「根源的知的存在」と考えるのも一つの考えです。物質の永遠の運動の中に迷い込んだのが人間存在であると考えるのも、理神論的に「知的存在」が塵から男を作り、男の肋骨から女を作ったと考えるのも一つの考えですね。このように考えて思い惑うのは、結局最終的答えのない、人類の、というよりキリスト教的西洋の思考パターンにはまることで、おそらくそう簡単には答えが得られない問題群ではないかと思います。これに答えるには、理性と論理ではなく、ある「心理的」(精神的とは言いませんが)飛躍が必要だと思います。しかしそういう飛躍ができるほど我々は単純でしょうか。ここで思うのは、18世紀のヨーロッパ人が、世界と宇宙への畏怖と、理性的思考をどのように一致させるかに苦慮した歴史です。宗教感情は、けっきょく、我々が、なぜ、今、ここにいるのかという、存在論的疑問であり、それによて生じる宇宙への畏怖に尽きると思います。宇宙の起源は何なのか。その「第一原因」は何なのか。与えられた答えと人間の理性とにどう折り合いをつけるのか、、、古くて新しい問題ではないでしょうか。

  4. aquilaさん、こんばんは。投稿ありがとうございます。aquilaさんのコメントに触発されて、いろんなことを考え始めました。今ぼくは、とても楽しい状態です。(まだ酒は飲んでません) 次々に浮かんでくる考えをaquilaさんにお話ししたくて、うずうずしています。ぼくは科学が大好きなのですが、ぼくが求める答えを科学は与えてくれそうにありません。うまくいえないのですが、そこにモノ、事柄があることを信じることはできる。でも、その、モノ、事柄自体が何なのか知りようがない。そして、ぼくが最も知りたいのがそれなのです。これは、当エントリーに載せたニュートンの自然観と一致すると思います。「神によって天体が完全な場所に配置されているからこそ、そこに一貫した法則が導き出される。人間の科学的研究は、神が創造した自然の中に神の意を読み取ろうとする努力である」つまり、人が科学を用いてできることは、モノと事柄を読み取ることでしかない。
    18世紀も現在も、簡単かつ肝心なことは何も分かっていません。分かったつもりで安心できるのはマスコミのおかげです。詳細に神は宿る、といいます。詳細はより実体に近い。現代人が頼みの綱にしているマスコミは詳細を伝えません。詳細をそぎ落とし、多くの人が納得できるよう体裁を整えて描出されます。詳細を知ったら、おそらく18世紀にも増して、世界は納得のいかないことだらけになるはずです。マスコミを通した世界に安住している人は、まさに居もしない神を信じている人なんだと思います。
    思いつくままにだらだらと書いてしまいましたが、ぜひ今度、飲みながら話させてください。例えばこんなテーマで話してみたいと思います。「マスコミのない社会の神と、マスコミのある社会の神」

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