ドライブの途中、タイヤのローテーションのため、ホームセンターに寄った
ホームセンターの隣は駅の跡
海を見下ろせる丘にのぼって散歩。北風が強くて寒かった
たまには、ってことで昼食はタカエビ定食を注文。とてもおいしかったです
山の上の公園で春を探した。ヨッパライ某が、ツクシが出てるかもよ、って言ったので、川の土手を探したけど、見つからなかった
いた!イチョウの林の手前で見つけた♪
わが家の前から
今日は休み。天気もいいし、ドライブに出かけよう、という気分だったが、数日前、階段で転んでわき腹を打ったヨッパライ某が、車が揺れると痛い、というので、ドライブはあきらめることになった
そんなわけでヨッパライ某を家に残し、車で10分くらいのところにある蝋梅屋敷にロウバイの写真を撮りに出かけた
屋敷のご主人に、今年も写真を撮らせてください、と挨拶し、広い庭をカメラを持ってブラブラ。風邪シロップみたいな甘い匂いが辺りに充満
軽快なステップで水路脇の草むらにジャーーンプ! ズブッ。昨年末、ブラックフライデーで3割引きで買ったおニューの靴がこうなった
昼食は16分茹でる太麺スパゲッティーで昭和風ナポリタン。太いせいもあってか食感が独特。好みが分かれそう
泥まみれの靴を洗って天日乾燥。どこを見ても青い空。頭は空っぽ。時間が止まってる。こういう休日も悪くない
予想通り、夕食はナベになりました
ついにこの日がやってきた。つまり、長かった休みも今日で終わり、がーん!という日である。
午前中は店に行って明日の準備。午後からは昼食を兼ねてドライブの予定だったが、行こうと思っていたランチの店が軒並み休業。しかたがないので、海の近くのいつもの店で魚フライでも食べよう、ってことになった。
ところが行ってみると、ここも休業。やれやれ、どこへ行こうか。と、ふと頭に浮かんだのが街はずれの小さな港にあるナントカ記念館。ここには小さなカフェがある。肉や麺類も食べ飽きたし、あそこでカレーを食べようぜ!と意気投合、海沿いの道路を走って記念館の駐車場に車をとめた。思った通り、ここは人もまばら。シーフードカレーの大盛りを注文し、テラス席へ。海から吹いてくる風が冷たくて心地よい。ヨッパライ某は寒いといって中のカウンター席に引っ込んでしまった
朝起きてカーテンを引くと空は暗いネズミ色、おまけに小雨が降っていた。今日は家で読書、と決めていたので、そうすることにした。ノーミソのスイッチを入れるためコーヒーを淹れる
左はSONYの電子書籍専用のE-inkリーダー。ほぼ毎日、10年以上使っているけど電池が少しヘタってきた以外には問題なく使えている。SONYストアの電子書籍しか読めない。右は昨年購入した各電子書籍ストアアプリ対応のE-inkリーダー。文庫本の小さな字が読みづらくなってこれを使うようになった。字の大きさを調整できるし、E-inkディスプレイなので長い時間読んでも目が疲れない
イギリスの詩人、サミュエル・テイラー・コールリッジのことを考えてほしい。一七九六年にアヘンを使い始めたのは、もともとは歯の痛みと顔面神経痛を和らげるためだった— しかしすぐに、取り返しがつかないほどのめり込み、週に二リットルものアヘンチンキをがぶ飲みするようになった。奇妙で幻想的なイメージにあふれた彼の詩『クーブラカーン』は、彼が「一種の夢想」と表現する、アヘンでハイになったときに書かれた。彼にとってアヘンは、自分の意識下の神経回路に接触するための手段になっていた。私たちは『クーブラカーン』の美しい言葉をコールリッジの功績だとする。なぜなら、それはほかならぬ彼の脳から生まれたものだからだ。そうでしょう? しかし彼はしらふのときには、その言葉を思いつかなかった。それなら、この詩はいったい誰が書いたものなのだろう?
カール・ユングが言ったように、「私たち一人ひとりのなかに、私たちが知らない別の人がいる」。ビンク・フロイドの言葉を借りれば、「僕の頭のなかに誰かがいるが、それは僕じゃない」
デイヴィッド・イーグルマン (著)「あなたの知らない脳—意識は傍観者である」より引用
元旦の夜、あちこちの電子書籍ストアをうろついてたら、ある店でその日限定の30%引きクーポンが当たった。なにを買おうか迷った挙句、いつか読もうと思っていた村上春樹の「街とその不確かな壁」をやめて「あなたの知らない脳—意識は傍観者である」を衝動買いしてしまった。そしたらなんと、読み初めてすぐにイギリスの詩人、コールリッジに関する記述が。「街とその不確かな壁」のエピグラフにはコールリッジの「クーブラカーン」の一節が引用されているのだ。
上に引用した「彼にとってアヘンは、自分の意識下の神経回路に接触するための手段になっていた。」は、春樹氏言うところの、「ぼくは地下二階に降りていってそこで何かを見、聞いて再び戻ってくる」とほぼ同義。以前「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだときには、ちょっとしたパラダイムシフト気分を味わったものだったが、「街とその不確かな壁」はそれをさらに確かなものにしてくれそうな予感がある。春樹氏の小説にはユングや脳学者の説を物語で表現しているものがあって、思いがけず専門的な科学書を読んだときと同じレベルのパラダイムシフトを経験できることがある。よーな気がするかも
昼食は冷蔵庫にある適当な具材でパスタを作ることにした
いろんなものが入っていて栄養たっぷり。納戸に賞味期限が近づいているトマト缶があったので、それでトマトスープを作った。とてもおいしかったです
起床9時。顔を洗ってダイニングに降りるとだれもいなかった。ヨッパライ某は買い物に出かけたようだ。ポットのコーヒーをレンジで温め、屋上のテーブルで読書。会話の口調を整えるため、毎朝整った文体の本を読む
昨日、墓所に行く前に寄った花屋にアーティチョークの苗が売ってたので買ってきた。これは学生の時に読んだ、伊丹十三、ヨーロッパ退屈日記にカクテルのつまみとして登場する大型のアザミ。若いつぼみを食用とする、ヨーロッパの春野菜。いつか食べようと思いつつ、機会がないまま、すっかり忘れていた。
ヨーロッパ退屈日記の「カクテルに対する偏見」に続く「おつまみ」の項に、エスカルゴと並んで件のアーティチョークが述べられている。以下抜粋
アーティショーというものがある。英語でいうとアーティチョークである。(中略)これを二十分ばかり茹で、次に冷蔵庫に入れて冷やすのである。これで調理は終り。小皿にオリーヴ油を入れて、これにレモンを少々絞り、ブラック・ペパーをたっぷり、塩を少量振りかけてドレッシングを作る。食べ方、などといっても格別のことはない。アーティショーの葉っぱを、外側から順に一枚ずつむしってはドレッシングにつけて食べるのである。ただし食べるといっても、葉っぱの一番根元のところに少量の柔らかい肉があるだけだから、葉っぱの真中あたりを歯でくわえ、葉っぱの先端をつまんでしごくように引き抜くのである
というわけで苗を買ってきた。今日は午後から雨とのことで、明日か明後日、天気のいい日に大きな鉢に植え替える予定。大きく育つといいな
続いて年末恒例のキッチンの掃除。タイル、システムキッチン、冷蔵庫などに洗剤を吹き付け、ナイロンたわしでゴシゴシこすり、きれいな布で拭き取る。腕が痛いせいで3時間以上かかった。昼食は昨夜のお好み焼きのタネが残っていたので、それを焼いた。
夜は帰ってきた子どもたちと一緒にスキヤキパーティー。スキヤキはぼくが作るのが一番うまいので、ぼくが作った。ヨッパライ某が近くの肉屋から買ってきた肉がかなり上等だったので、いつもと違うやり方で作った。ネギは店のお客さんから頂いた無農薬の自家製ネギ。これを贅沢に使い、甘く香ばしい、家族からも大好評のスキヤキが完成、笑い声が絶えない楽しい夜になった。人間関係において食べ物の役割は大きい
早朝の病院の駐車場はとても寒い。エスキモーみたいなダウンジャケット、分厚い靴下、ウルトラヒートテック、そんなものを着込んでヨッパライ某の帰りを車内で待つ。病院が開くまでの時間を含めると約2時間半。その間、先日購入した、礒山雅 (著)、マタイ受難曲を読みはじめた
バッハのマタイ受難曲が好きな人なら、この本は興味深く読める、と思う。
熱帯雨林の説明書きにはこうある。
荘厳な響きと、雄大な構想により、西洋音楽の歴史において圧倒的な存在感を誇ってきた“マタイ受難曲”。イエスの捕縛から十字架刑、そして復活までの物語を描いたこの作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、音楽としての価値を超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。いまなお演奏ごとに、そして鑑賞のごとに新たなメッセージが発見され続ける、すぐれて現代的なテーマを秘めている。バッハ研究の第一人者が、バッハの手書き譜や所蔵していた神学書など膨大な資料を渉猟し、ひとつひとつの曲を緻密に分析して本国での演奏にまで影響を与えた古典的名著
どこかで昼食にしよう、ってことで、いつものように山を越え、漁港近くのスシ屋に走った
近くの丘にのぼって、海を見下ろす。冷たい風が顔に当たってひりひりする
ぼくは安い方のスシ定食、ヨッパライ某は煮魚定食。とてもおいしかったです。ちなみにこのスシ屋、いつも昭和の歌謡曲が流れている。帰る時にかかっていたのはブルーライトヨコハマ。たぶん、知っている人はもうほとんどいない。
今日は年末の大掃除の一つを終わらせる予定だ。家に帰りつき、作業を始める前に屋上で熱いコーヒーを飲んだ
換気扇とレンジの掃除を開始した。例によって、換気扇のファン、金属フィルター、ガスレンジのバーナーや五徳を特殊な液体に漬け込む。約2時間で、こびりついた油汚れがごっそり取れる。ラクチン!