春よ来い

080206
今頃どんな夢を見てるだろう。
ムーミン谷のカバたち。
春までぐっすりおやすみ。
冬はまだ続く。
今日は太陽が明るい。
ぼくの低空飛行は続いている

高気圧girl

今日はドライブに行く予定だったのだが、数日前、O型の某妹から、例の有無を言わせぬ命令口調で「今度の月曜、伯母を病院に連れて行くように」との達示があった。そういうわけで、朝から伯母を車に乗せ、某整形外科に連れて行ったのだった。診察してみると、骨粗しょう症とかいう舌を噛みそうな病気で、二個のホネに問題があり、3週間安静とのことだった。病院は年寄りで大繁盛。かなり長い時間待たされた。通路に血圧を測る機械が置いてあったので、ヒマつぶしに測ってみた。最高血圧103。ぼくはむかしから血圧が低い。圧力が低いと、O型某妹のような高圧力系人間に対してヨワイ。科学の原則である。

座禅

blog「つれづれなるままに」のナスがママさんに誘われて、今朝、南州寺というお寺に座禅を組みに行った。寺に着いたのが5時50分。夜明け前の一番寒い時刻。玄関の前で、ナスがママさんと、お誘いしたblog「Marutaの部屋」のmarutaさんを待った。三人そろったところで、広間に上がり、畳に置かれた座布団に座って脚を組んだ。(そのあたりの様子を、昨年1月に同様の体験をされたナスがママさんがブログに詳しく描いてらっしゃるので、興味のある方はそちらをご覧になってください。
禅を組み、しばらくぼんやりしていると、ふしぎと頭が冴えてきた。遠くで小鳥の声が聞こえ、風がそよぎ、波の音が感じられた。もちろん、部屋は締め切られているので、そんなはずはないのだが。ほんのひと時だったけど、少し何かが分かったような気がした。それは、分からないからこそ分かる、というようなこと。

磯まで走っど!

080202
昨夜は古い友人たちとノンカタ(飲み会)だった。場所は高見橋の袂にある某居酒屋。ぼくは30分遅れて到着。店の中は、その店が納まっている小さなビルからは想像できないほど広く、1、2階に設けられた堀コタツ式の座席は仕事帰りのサラリーマン客でビッシリ埋まっていた。さっそく席について乾杯、刺身をつまんでいると、
「酒は飲み放題やっど」とだれかが言った。この○○放題、という言葉にぼくはかなりヨワイ。
矢継ぎ早に生ビールを飲み続けた結果、酔うつもりはなかったのに酔ってしまった。彼女の話やダレが一番速く死ぬかなどとタワイ無い話で盛り上がっているとき、ぼくはふと、忘れかけていたある事件を思い出し、思わず叫んだ。
「よーし、磯まで走っど!」
場は一瞬静まり、ややあって笑いのウズと化した。
あれは○○年前の寒い夜、そう、ちょうど今頃だった。その日は3人で飲んでいたのだが、天文館から帰路に就こうとしていると、突如Aが「よーし、磯まで走っど!」といいだした。天文館から磯までケッコウな距離がある。冗談だろうと思っていると、Aはさっさと一人で走り出した。やれやれと思いながらも、ぼくとBは後に続いた。ぼくたちは若かったのだ。いったん走り出すと、自称「スポーツ万能」のBが俄然活気付き、すぐにAを抜いて先頭に立った。AもBも足が速い。彼らは高校時代、それぞれサッカー部、野球部のキャプテンをやっていた。体育系なのだ。ふたりは文学系のぼくを残し、どんどん先を走っていく。が、しばらく走っていくうちにAが失速しはじめ、やがてぼくと肩を並べるに至って、抜きつ抜かれつの接戦となった。ゴールの磯海水浴場が近づいてきた。ぼくは最後の力を振り絞り、ブーストをかけた。砂浜が見えてきた。砂浜で待っているBの影。万歳、ぼくは2着でゴールイン。ビリはAに決定したのだった。そのAがなかなか到着しない。変だな、と二人で言い合っているところに、やっとAが現れた。現れたのはいいが、ぼくらの前を走り抜け、そのまま海に飛び込み、沖へ沖へと泳ぎだした。ぼくとBは唖然とした。雪が降ってもおかしくない寒い夜だった。もし彼が心臓麻痺で死んだりしたら、きっとぼくは彼の両親に責められるだろう。ぼくは心底心配した。そのあと当事件のメインイベントが起こるのだが、今日は早く寝ないといけないので、コレでおしまい。
なお、上の写真とこの記事はぜんぜん関係ありません。
おやすみなさい

手作りな人たち

Rosemary_01
ぼくはいつも言っている。
「ギョーザは手作りに限る」
そう、ぼくは病的に手作りが好きなのだ。
たとえば、家に帰って、テーブルにお菓子があった場合。
ぼくは家人にこう聞く。
「ねえコレ、手作りなの?」
「うん、○○さんが作ったの」
「へぇぇ~」
ぼくは喜んでそれを食べる。
しかし、
「○○で買ったの」
となると、ぼくは無言。手をつけないことが多い。
きょうも、お客様から焼きたての食パンを頂いた。もちろん手作り。美味しすぎて食べ始めたらとまらない。ひとりで全部食べてしまった。閉店後、病気で店に来れなくなったお客様の家に珈琲を配達した。帰りに彼女特製の手作りクッキーを頂いた。とても美味しかった。今フト思ったのだが、ぼくはもらってばかりいる。
さて、皇徳寺店で、Ms.ROSEMARYの季節の手仕事展が明日から始まる。展示を終えた今日、早速、手作りの茶香炉3つとお地蔵様が売れたそうだ。皇徳寺店の常連さんが趣味で作った手作りの陶器、コサージュなどの展示即売会。お近くの方は(遠くの方も)、ぜひ寄ってみてください。

ぼくの祭り

だれがそうしているのか知らないが、イヤな天気が続いている。まるで世界のネジを逆に巻いたような空だ。こんな日は、そう、踊るに限る。
おどろよBaby !
Dance!Dance!Dance!
踊れ、狂ったように
  —————————-
 考えてみると、常識というものは、人間の意識が元型の侵入を受けて混乱しないように、長い歴史をかけてつくりあげてきたようなものである。しかし、近代までは人間は常識のみならず儀式や祭りなどによって非日常の場を設定し、元型との対応をはかってきた。 — 中略 — しかし、近代になって自我=意識を尊重するあまり、そのような儀式や祭りを非合理なこととして排除したり、拒否したりしてしまった。その結果、元型的イメージが日常の世界において突如として個人に襲いかかるようなことになってきたのである。集団的な祭りをできなくなった現代人は、このために、個人として個人の祭りを日常生活を保ちつつ行うという難しい状況に立たされることになった。
 河合隼雄著「イメージの心理学」 イメージと元型 より引用

全世界は異郷のようなもの

「自分の故郷を愛おしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」
この言葉、フランスの中世の哲学者サン・ヴィクトルのフーゴーの言葉だそうです。
おととい、某新聞の「読書」欄に、ジョナサン・コット著『The Search for Omm Sety』(「オンム・セティを探して」)を翻訳した『転生 古代エジプトから甦った女考古学者』というノンフィクションが紹介されてました。ぼくはその内容に興味を持ち、さっそくネットで調べてみました。すると、この本の翻訳者のブログにたどり着き、その紹介記事を読んで、ますますこの本に興味を持ちました。そのブログの中で紹介されているのが、冒頭の言葉です。含蓄のある言葉だと思うのですが、それを深く味わうためにも、ぜひこの本を読んでみたいと思いました。