今日は定休日。船に乗って、近くの島にやってきた
島の最南端にある灯台
この島で有名な岩だそうです
この島では恐竜の化石が見つかるそうです
島と島を結ぶ長い橋。実をいうと、この橋を渡るためにやってきたのです。ちなみにこの展望所、眺めはとてもいいのですが、道が細い
温泉に入って、ビールで乾杯
今日は定休日。昨日あんなに晴れてたのに朝起きたら小雨が降っていた。屋上に出て空を見上げると、一面、灰色の雲。しかしよく見ると、北の方に、まるで小さな希望のように青空が見えた
小雨がぱらつく中、車は青空に向かって走っていた。昼食をどこで食べるか迷っていると、あの海の神社のそばにある海鮮丼のお店はどう?と、ヨッパライ某が言うので、行ってみたが休業中との看板が。車は海沿いの道を北に進んで川を渡り、左に曲がって5~6分のところにある漁協直営の店に着いた。空はすっかり晴れていた。ヨッパライ某は安い方の寿司、ぼくは刺身定食を注文した。とてもおいしかったです
海辺の無人駅を横切って砂丘を越え、砂浜に向かった。彼岸花が満開
駅のホームから少し歩いたところに井戸の跡がある。今は網がかけられ、石碑が建てられている。学生の頃、泳ぎに行ったり、キャンプをしたりした後、この井戸で体を洗った。
井戸が在ったころの8ミリフィルムの映像。
足を洗っているのは仕事男。20代前半
車のトランクにロケット花火があったのを思い出した
夕食はバーベキューになった。多分、今年最後のバーベキュー
まず豚バラを焼きます。煙がモウモウと立ち昇るところがたまらなくイイのです
朝起きると時計は8時20分を指していた。しばらくしてスマホにメールが入った。「コーヒーが入ってます」
一階に降りてみたが人影はなく、しんとしていた。
ヨッパライ某は髪を切りに出かけていた。カップにコーヒーを注ぎ、屋上に上がってベンチに腰掛けた。今日は月曜日で定休日。でも祝日なので出かける予定はない。ふと思い立って夏目漱石の草枕を読み始めたが、めんどうな漢字がやたら出てくるので眠くなってきた。草枕はやめてテーブルに載ってたガルシアマルケス、わが悲しき娼婦たちの思い出を手に取った。これは既に読み終えていたのだが、おもしろかったのでまた読みたくなった。主人公は90の誕生日を迎えた独身のジジイ。
夕食はバーベキューになった。今年最後のバーベキューになりそう。
と、この前も書いた
臆面もなく昨日の記事から続くのだった
人生を生きよ、とフェルナンド・ペソアは言う。
「現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ」
「なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ」(ぼくはまだ見てないけど、黒沢映画「生きる」がこの問題を扱っているんじゃないかと思う)
先日、夕食を食べながらヨッパライ某と話した。人はなぜ危ないところに行きたがるのか。植村さんはなぜ北極に出かけたのか。
もしかするとその答えがペソアの言うこれなのかもしれない。
「本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない」
男たちは自分の中にある永遠の女性像を目の前の女性に投影してそれを追いかける。でもそれは幻だから追っても追っても逃げ水のように遠ざかってしまう。ユングの言うアニマがそれだ。昨日、青空に向かって山道を走ってると、カーオーディオから沢田研二の「コバルトの季節の中で」が流れはじめた。ぼくはとなりの女性にそのイメージを重ねることができる。現実と幻の境界を意識できるから。
「コバルトの季節の中に」の女性と、大瀧詠一の「ペパーミントブルー」の女性は男にとって幻の女性だ。畢竟、人生は幻なのか。フェルナンド・ペソアは次のように書いている。
人生を生きよ。人生によって生きられるな。真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることのみに腐心せよ。生まれることから死ぬことに至るまで、現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。
時計を見ると23:08
あしたは休みだけど、いつまでも起きていると寝坊して貴重な休日が減ってしまう。
さっき、本を注文した。
ガルシアマルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」。
川端康成の「眠れる美女」に触発されて書かれた小説だそうだ。
おやすみ