ブリキの赤いミニ

ヨッパライ某の誕生会は参加者の都合により延期されていたが、一週間後の今夜、自宅にて無事開催されることになった。
昨日「食事は何にする?」と、娘からメールがあった。ずいぶん前、家族いっしょにソーメンが食べたい、と娘が言ってたのを思い出し、「ソーメンでどお?」と返信すると直ちに「いいね!」の回答があった。主役が何を食べたいかはあまり関係ないのだった。
食事が終わり、テーブルにケーキが載った。娘が踏切近くのケーキ屋で買ってきたモンブラン。ナイフを入れ、皿に分ける。プレゼントを渡す。

ぼくのプレゼントはブリキの赤いミニクーパー。結婚して間もないころ、彼女は車が欲しい、ローバーミニが欲しい、と、熱に浮かされたようにつぶやいていた。いつか買えるはずだった。しかし、ぼくが想定外の脱サラを強行し、借金をすると、以来、それを口にすることはなくなった。たぶん、あきらめたのだろう

スイカの匂い

夕食後、近くのスーパーに買い物に出かけた。目的のものを買い終わり、ついでにフルーツみつ豆の缶詰を買おうと探し回ったが見つけられなかった。代わりにスイカボールシャーベット、スイカ果汁5%入り、というのを見つけたので、それを買った。スイカ果汁やキュウリ果汁が入ってるやつは、ハズレをひくとカメムシの匂いがするが、これは大丈夫だった

夜の声

ニュースによると今日の最高気温は29.5度だったそうだ。でも、夏の空じゃなかったし、風は秋のようだった。ぜんぜん、わくわくしなかった。
さっきまで屋上に出て夜景を眺めていた。どこかでフクロウが鳴いていた。フクロウの声は侘しい。栄養失調の老犬がため息を漏らしているみたいに聞こえる

なんとなく魚フライ

カラータイマーは赤く点滅していたがM78星雲に帰るほどではなかった。昨夜、家族で夕食を楽しんでいるときに戯れで体温を測ったら、ちょっと高めの38度5分だった

朝起きて体温を測るとだいぶ良くなっていた。めずらしくヨッパライ某が心配してくれて、何でも好きなものを食べるといいよ、なにが食べたい?と聞くので思わず、高級なもの、と言ってみたが、食べたことがないせいか具体的なものが浮かばなかった

外は雨が降っていた。雨が降るとなぜか魚フライが食べたくなる。そんなわけで山を越え、海沿いの道路を走っていつもの食堂に向かった

車の窓から眺める雨の海は例えようもなくいい。カーステレオからはシャーデーの気だるい曲が流れてた

変な柄の傘をさしている怪しい男

この海沿いの道路を走るとき、決まって思い出すのが、フットルース、というサーファーが集まるお店。何回も行ったわけじゃないけど、店の名前がかっこよかったせいか、当時の思い出の一コマになっている。ちなみに、映画フットルースはレーザーディスクで繰り返し観ました。音楽がイカシてたな。主役はトレマーズのケビンベーコン。ビデオは1986年の夏に撮ったもの

夕食は、食堂で買った新鮮なミズイカをヨッパライ某が調理したイカ墨のお吸い物とカンパチのあら煮

夢の中へ

数日前から風邪気味で頭がぼんやりしている。そんな時は変な夢を見ることが多い。今朝見た夢はまさに夢みたいな夢だった。ぼくはどこかの島の砂浜にいる。あたりは薄暗く、波打際から十メートルくらい離れたところに竪穴があって、そこから人が出入りしている。海の近くだから、穴の中は水浸しのはずなのだが。その穴は深く、途中枝分かれし、奥には住居があるようだ。なぜかその島には知人Aがいて、やつらはゾンビなのだと教えてくれる。ぼくはそこを調べに行くことになっている。そういう任務なのだ。穴に入ると、灯りはなく、真っ暗。ゾンビたちは暗闇の中でも普通に動き回れるようだ。その後が思い出せない。夢はまだ続いていたのだろうけど。朝起きて、今朝は変な夢を見たな~、とブツブツ考えながら、洗面所で顔を洗い、ハナをかんだら、ハナの中に砂がいっぱい混じっている。この砂はどこから来たのか。実は、ずいぶん前にも同じようなことがあった。その時は砂漠のようなところを歩いている夢をみた朝のことだった。同じように、ハナに砂がたくさん混じっていた。砂嵐の中を歩かない限り、こんなことは起きないんじゃないかと思うのだけど

お昼はトレマーズだった

画家ロートレックは、イナゴを炭火で焼き、皮をむいて食べるとエビそっくりの味がする。名付けて「イナゴの網焼き、洗礼者ヨハネ風」と、その料理書に書いた。わが家の庭にもプリプリ太った美味そうなイナゴがいる。しかし、わざわざそんな面倒なことをしなくても車でちょっと走れば本物のエビが食える

山を越え、海に向かってしばらく走ると小さな漁港がある。その近くの寿司屋で、いつものようにヨッパライ某は安い方の寿司、ぼくはエビフライ定食を頼んだ。エビという生物は見れば見るほど不気味な姿をしている。トレマーズという、ミミズの化け物が人を襲う映画があったが、(確か、主役はケビン・ベーコン)エビの顔もそれと負けないくらいひどい

食事の帰りに砂祭りなんとか、みたいなところに寄ってみた。ぼくは芸術のことはよくわからないが、やはりわからなかった。でもこれなんか、かなりすごいんじゃないかと思う。金魚の滝下り、みたいなの

お城と合体した巨大なおねえさん

ミラーマン

文学を読むとはどのようなことか

昨日、ネットをぶらついてたら、ちょっと気になる記事に出くわした。それは「村上春樹、成功までのドキュメント!辛島デイヴィッド『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』評、というもの。
記事の後ろの方に、こんな項目がある。以下抜粋


■文学を読むとはどういうことかについての示唆

本書の3つめの魅力として、文学を読むとはどのようなことかについての示唆がある。私は本書を読むまで、村上作品の英語版に大胆な編集や翻案が施されているという事実を知らなかった。さんざんアメリカ風(場合によっては無国籍風)といわれてきた村上作品のこと、翻訳に際しても縦のものを横にするだけでたいした苦労はなかったのではないかと安直にも思い込んでいた。だが、事実はまったく異なる。言い換えや補足といった翻訳につきものの作業だけでない。削除や省略、章や節のタイトル変更、はては章の順序の入れ替えといった大工事まで行われているのである。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』の英語版を手にとってみてほしい。翻訳者や編集者による苦心惨憺のあとをうかがい知ることができる。また、これを承諾した原作者の度量の大きさも。つまり、読者がHaruki Murakami(村上作品の英語版)の新鮮なヴォイスに魅了されるとき、彼らはその制作に携わったすべての者たちのヴォイスをも同時に聴きとっているということだ。これこそ、レイモンド・カーヴァーの佳品をもじった本書の奇妙なタイトルに込められた意味である。


「私は本書を読むまで、村上作品の英語版に大胆な編集や翻案が施されているという事実を知らなかった。」とある。もちろん、ぼくも知らなかった。そして「これこそ、レイモンド・カーヴァーの佳品をもじった本書の奇妙なタイトルに込められた意味である。」と締めくくる。ぼくはギョッとした。大ヒットしたカーヴァーの短編小説集「愛について語るときに我々の語ること」は、その編集者、ゴードン・リッシュによって大幅な削除、翻案がなされていたことがあとで知られることとなった。カーヴァーの作品が商業的な成功を収めたのはこのゴードン・リッシュの作業によったと言っても過言ではない。おそらく記事の筆者はこのことを言っているのだと思う。つまり、村上作品の英語版は日本で出版された作品とはかなり違ったもので、その改変程度は甚だしく、ゴードン・リッシュの手によるレイモンド・カーヴァーの作品群に匹敵する、と。カーヴァーの作品が後にそう言われたように、果たしてこれは「村上春樹の作品」と呼べるのだろうか、と。もちろん、それはここでは肯定されており、それがテーマになっているのだけど

壁のフォトフレーム

2011年4月6日 水曜日
デジタルフォトフレームが届いたので、さっそく店の壁に取り付けてみた。変な写真も混じっているのだけど、お客さんの反応はとてもいい。

2015年7月24日 金曜日
店のフォトフレームが壊れた。かなり長い時間使っているのでもう寿命なのかもしれない。とりあえず疑わしい部品を交換。

2019年5月9日 木曜日
店のフォトフレームが壊れた。リセットしたり、いろいろやってみたが、写真が表示されない。購入して8年、修理して4年になる。毎日つけっぱなしだったし、そろそろ寿命なのかも。もう修理するのはよそう。

某F少年からもらったフォトフレーム。今まで使ってきたものより、かなり上等。

とてもきれいに映る。ぼくって、こんなに写真が上手だったのか、と、思わず見とれてしまう。

失敗の価値

中谷宇吉郎の随筆集を読んでたら、最近よく思うことと同じことが書いてあって、まったくそうだよな~、と、しみじみ思った。
以下、随筆「私の履歴書」より、彼が高等学校の入学試験に落第した話から


実は大学を出て寺田寅彦先生の助手になって、理化学研究所で働いていた頃、ある晩お宅へ遊びに行っていて、この落第の話をしたことがある。そうしたら先生が「そうか、それはよい経験をしたものだ。落第をしたことのない人間には、落第の価値は分からない」と褒められてちょっと驚いた。それから先生は「僕も落第したことがある。中学校の入学試験に落第したんだが、あれはいい経験だった。夏目(漱石)先生も、たしか小学校で一度落第されたはずだ。人生というものは非常に深いもので、何が本当の勉強になるかなかなか簡単にはわからないものだ」という話をされた。


人生においてほんとうに大切なことは、失敗して、眠れないほど悩まないと自分のものにならない。そんなことを最近、よく思うのです。フェリーニの「道」に出てくるザンパノもそうだよね

A LONG VACATION 3日目

朝起きると時計はまだ6時だった。旅立つ時が来たのだ。いつまでも庭をほじくりまわしていると芋虫に変身してしまう。あのザムザのように。というわけで天気もいいし、山の上の美術館にでも行ってみるか、ということになった。

「風景をつくる眼」という展示会をやっていた。なかなかおもしろかった

この変なのがとても気に入った。アメリカの作家の作品

昼食はいつものように東洋のナイアガラで食べようと思ったが、あまりに人が多く、駐車場でUターン。発電所遺構も、今まで経験したことのない人の多さだった

しかたないので川を下り、ダムの食堂に行った。550円の定食。おいしかったです。味も価格も昭和