文学を読むとはどのようなことか

昨日、ネットをぶらついてたら、ちょっと気になる記事に出くわした。それは「村上春樹、成功までのドキュメント!辛島デイヴィッド『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』評、というもの。
記事の後ろの方に、こんな項目がある。以下抜粋


■文学を読むとはどういうことかについての示唆

本書の3つめの魅力として、文学を読むとはどのようなことかについての示唆がある。私は本書を読むまで、村上作品の英語版に大胆な編集や翻案が施されているという事実を知らなかった。さんざんアメリカ風(場合によっては無国籍風)といわれてきた村上作品のこと、翻訳に際しても縦のものを横にするだけでたいした苦労はなかったのではないかと安直にも思い込んでいた。だが、事実はまったく異なる。言い換えや補足といった翻訳につきものの作業だけでない。削除や省略、章や節のタイトル変更、はては章の順序の入れ替えといった大工事まで行われているのである。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』の英語版を手にとってみてほしい。翻訳者や編集者による苦心惨憺のあとをうかがい知ることができる。また、これを承諾した原作者の度量の大きさも。つまり、読者がHaruki Murakami(村上作品の英語版)の新鮮なヴォイスに魅了されるとき、彼らはその制作に携わったすべての者たちのヴォイスをも同時に聴きとっているということだ。これこそ、レイモンド・カーヴァーの佳品をもじった本書の奇妙なタイトルに込められた意味である。


「私は本書を読むまで、村上作品の英語版に大胆な編集や翻案が施されているという事実を知らなかった。」とある。もちろん、ぼくも知らなかった。そして「これこそ、レイモンド・カーヴァーの佳品をもじった本書の奇妙なタイトルに込められた意味である。」と締めくくる。ぼくはギョッとした。大ヒットしたカーヴァーの短編小説集「愛について語るときに我々の語ること」は、その編集者、ゴードン・リッシュによって大幅な削除、翻案がなされていたことがあとで知られることとなった。カーヴァーの作品が商業的な成功を収めたのはこのゴードン・リッシュの作業によったと言っても過言ではない。おそらく記事の筆者はこのことを言っているのだと思う。つまり、村上作品の英語版は日本で出版された作品とはかなり違ったもので、その改変程度は甚だしく、ゴードン・リッシュの手によるレイモンド・カーヴァーの作品群に匹敵する、と。カーヴァーの作品が後にそう言われたように、果たしてこれは「村上春樹の作品」と呼べるのだろうか、と。もちろん、それはここでは肯定されており、それがテーマになっているのだけど