朝、いつものようにCDをかけながら店の準備をしていた。
一度は愛しあえた二人が石のように黙る
流れていた曲は大滝詠一のVelvetMotel.
一度は愛しあえた。
なぜかその言葉がいつまでも耳で燻り続けた。
一度は愛しあえた。
Perfect!一度は愛しあえたのならそれで十分。
男女の愛は虚構だから。
森羅万象に属する自然の策略だから。
酔うほどに醒める安い酒。
ところで、一度は愛しあえた?
静かな夜
仕事を終え、家に帰ると、だれもいなかった。どの部屋も真っ暗で、ひっそりしている。家人は皆、福岡に行っているのだった。今日明日2日間、ぼくは一人なのだ。
「さーて、何をしようか」
そうつぶやいてみると、妙にわくわくした気分になった。まるで留守を預かる子供だ。冷蔵庫にあるものを適当に料理し、晩飯を済ませ、映画を見始めた。腰が痛いので、ソファに横になって見た。F氏から借りていた「アトランティスのこころ」
地味だったけど、なかなかおもしろかった。スタンプカードの印刷を終えて茶碗を洗った。風呂に入り、洗った洗濯物を干した。メールチェックを済ますと1時になっていた。
静かで楽しい夜だった。
明日の夜は、何を食べようかな。
チャンピオンベルト
計らずしてチャンピオンベルトを腰にする栄誉に預かった。鏡の前に立ち、腰のベルトに手をあてたとき、ぼくは思いがけず胸が一杯になった。力道山は強かった。無敵だった。これはプロレスの話である。彼がチャンピオンベルトを高く掲げ、ファンとともに勝利の勝どきを上げる姿を今もありありと思い出す。彼のベルトは自宅のテレビが白黒だったせいで黒かったが、今、鏡の向こうでぼくのベルトは純白に輝いている。
「中山式腰椎医学コルセット」
ぼくのベルトの名前である。薬局で売っている。
ピアノは重かった
ぼくの小さな夢は、ピアノが弾けるようになることだ。ピアノは娘の部屋にある。その娘がこの春、福岡に旅立った。娘の部屋は窓が三方にあり、風通しが良く、開放的で明るい。しかし、窓が多いということは、音が外に漏れるということでもある。一方、となりの部屋は窓がひとつしかなく、しかもそれは道路を挟んだ空き地に向いている。その部屋だったら、近所に気兼ねなく、朝な夕な、存分に練習ができる。というわけで、ピアノをとなりの部屋に移すことにした。今日は定休日。朝からさわやかに晴れている。朝飯前に、パッと済ませてしまおう、と、ぼくは軽い気持ちでピアノを持ち上げた。つもりだった。びくともしない。信じられない重さだ。仕方なく、先にウォーミングアップを兼ねて机を運ぶことにした。事件はその時起こった。机を持ち上げたとたん、腰に激痛が走った。いわゆる、ぎっくり腰である。その凄絶な痛みを人は「痛みのチャンピオン」と呼んでいる。かもしれない。歩くのはおろか、立つこともできない。無理にピアノを持ち上げようとした時点で腰に異変が起きたのだろう。額に脂汗をにじませ、ぼくは這うようにして、まだ温もりの冷めぬベッドに引き返した。
乙女心と春の空
昨夜、屋上に上がったぼくは、おもむろに人差し指を口に突っこみ、夜空を仰いだ。口から離れた指は、ひとすじの銀の糸を引いて天の一角を指した。
「明日は雨だな」
予報によれば、明日はおおむね好天らしい。しかし翌朝、つまり今朝、ぼくは雨の音で目覚めることになった。だからといって、ぼくは気象庁を責める気などない。気象の予測は大変デリケートなものである。高名な某カオス理論によれば、北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こるという。これは取るに足らない些細な現象が、予測とまるで異なった結果を引き起こすという例えだ。つまり、気象を予測するならば、こういう下位レベルのデータまで入力する必要があるといっているのである。
では、今日の気象予測を外し、雨をもたらした「蝶の羽ばたき」に相当する些細な原因とは何だろう。
これである。昨夜は土曜であった。あちこちで乙女の住まう窓が開き、家に取り残された彼女らの、たっぷり水蒸気を含んだタメ息が上空に昇ったのだ。
エントロピー
通夜
黒い服を着込んで海沿いの道路を走る。
時計は22時を回った。夜の道路。
低くうなるタイヤの音が海鳴りのようだ。
夜を浸食した海が暗い道路を覆う。
海の底を走って死んだ人に会いに行く。
アカショウビン
店の棚を整理していたら、お客さんから借りたCDが出てきた。
「日本野鳥大鑑」
そのお客さんはまだ高校生。野鳥が好きだということだったので、「家の近くに毎年アカショウビンがきて鳴いていたのに、ここ数年、声がしなくなった」と、ボイスレコーダーに吹き込んであったアカショウビンの声を聞かせてあげた。彼はそれを憶えていて、次にコーヒーを買いにきた時、このCDを持ってきてくれたのだった。そのとき、彼はずいぶん疲れた様子だった。いまどきの高校生は勉強に忙しい。かわいそうに。「朝まで英字新聞で勉強してたんですが、文字が読めなくなって砂のように浮き上がり、こう、手ですくえるような感じに…」と、彼はカウンターに置かれた見えない英字新聞から文字をすくって見せた。その手がひどく年老いて見えた。特に驚くほどのことではない。ぼくもたまにあるのだが、彼はゲシュタルト崩壊を経験したわけだ。以来、彼はやってこない。季節は春。ぼくも冬は年寄りのようになる。彼は時々このブログを読んでいると言っていた。もし、これを読んだなら、返事をください。
花見
よく行く南の植物園のなかに立派な温室がある。入り口は自動ドアになっていて、冬に入ると、メガネが一瞬にして曇る。その大伽藍の一番奥に、食虫植物ばかり寄せ集めた場所がある。ウツボカズラ、モウセンゴケ、ハエジゴク。食虫植物は、その名の通り、虫の好む匂いを出して虫を呼び寄せ、捕食する。その、おどろおどろしいいでたちに、思わず眉をしかめる女性もいるだろう。しかし、虫を陥れんがために機能する無駄のないデザインには、死によって生を得る、究極の美学が見える。
桜の花が咲き始めた。ミツバチは花の匂い、色におびき寄せられ、集まる。それは桜にとって、子孫繁栄という大目的のための、必死の仕掛けである。生物は、子孫繁栄のために、なりふり構わない。
桜は人をも呼び寄せる。
自然界には、いろんなワナが、無意識に仕掛けてある。
春分の日
キューバ対ニッポンの野球があるらしい。なんと、決勝戦だそうだ。ニッポンって、そんなに強いのか。ぼくは野球に興味がないので、まるで関心がなかった。今日は祝日だし、日本国民は家でテレビの前に釘付けだろう。当然、お客さんは少ないに違いない。と、見当をつけ、朝からのんびり豆を焼いていた。しかし、ぼくの予想は外れた。朝からお客さんが多い。
「野球は見ないんですか?決勝戦らしいですよ」
中年の男性に聞いてみた。
「ああ、そういえば今日だったね」
涼しい顔でそうおっしゃる。意外だった。日本人は、みな熱狂的な野球マニアだと思っていたのに。後で気づいたのだけど、試合中にいらしたのはコテコテの常連さんばかりだった。
類は友を呼ぶということか。