「帰りに、いつものを1キロ」
月二回の割合で、店じまいをする頃にかかってくる電話。
ぼくはいつもの豆を袋に詰め、彼の家に寄った。
彼の家は通勤路の途中にある。
ピンポーン
しばらくして開いたドアの向こうで、男が微笑んだ。
「うっ」
ぼくは言葉に詰まった。
「へっへっへー、どお?似合うでしょ」
いつもツルツルの顔が、ヒゲもじゃ。
「いちお、船長だし。このほうが似合うと思って」
船長=ヒゲづらなのか?
そういえば、海賊の親玉はたいていヒゲづらだ。
もしかすると、ぼくだってヒゲづらのほうが仕事にマッチするのかもしれない。する気はないけど。
午後五時の部屋
午後五時を過ぎた頃に、機械の部屋に夕日が差してくる。あたたかい黄金色の光が、部屋を満たす。光に包まれていると、遠くでざわめく音が聞こえてくる。ちいさい頃に、いつも聞いていた音。何の音か分からない。心臓の音のような、海の音のような。
ボサノバの夜
お酒があれば、さらに良いのだけど。
一人の夜。
開けた窓から吹き込む風がやさしい。
音楽は、スローなボサノバ。サックスの音。
彼女は夜の声でやわらかく歌う。
あなたのこと、知ってるわ。
知っているって、なにを。
ぜんぶよ。
それでやさしいのか。きみは。
空箱
昼過ぎ、サラリーマンだった頃の同僚が遊びに来た。彼とは、よく飲みに行ったものだった。まず一軒目でバーボンを一本空け、次に、深夜まで開いているショットバーでダイキリを飲む。いつもこのパターンだった。酒の肴は、理想の女についてだったり、相対性理論だったりした。彼もぼくも科学大好き少年だったので、自然の謎についての話が弾むことが多かった。
「顕微鏡で自分の精子を見たときは感動したな」
グラスを傾けながら、彼は感慨深げに言った。負けたと思った。どうやって自分の精子を抽出したのかは、聞いたような気もするし、聞かなかったような気もする。そんな話の中で、ぼくはたぶん、
「トックリバチの巣をまだ見たことがない。一度見てみたい」
と言ったのだと思う。
小学生の時、通学路でぼくはそれらしきものを発見した。どう見ても、図鑑に載っているトックリバチの巣だった。それは、知らない人の家の塀の向こうの木にぶら下がっていた。ぼくは塀によじ登り、それをちぎって大事に持ち帰った。しかし、それは干からびたザクロだったのだ。
彼はその話を憶えていて、トックリバチの巣を持ってきてくれたのだった。それはお菓子の箱に入っていた。想像したのより、ずいぶん小さかった。遠い昔、田舎のばあちゃんがグリコの空箱にクワガタを入れてくれたのを、ふと思い出した。
備忘として
この日、ぼくは奇妙な体験をした。
それが起きたのは昼前だった。豆を焼き終わってホッとしている時、突然、何の脈絡もなく、ある施設の風景がリアルに頭に浮かび上がった。そこは約10年前、仕事で訪れた地方の施設だった。その時一度行ったきりで、特に思い出になるような出来事もなく、そこを訪れたことなど、すっかり忘れてしまっていた。そんな、どうでもいい施設の風景が、突如、現実感を伴って思考の中に立ち上がってきたのだ。とても驚いた。施設の駐車場の隅に何か黒っぽいものがいくつも積み重ねられているのが見え、そばに近づけば、それが何であるか分かるような気がする。実際、ぼくはそばに寄って確かめようとした。(この時点で、この体験はかなり異常だぞ、と思った)が、そこで風景が曖昧になり、わからなくなった。不気味なくらい現実的だった。ただ、夢と同じで、今ひとつはっきりせず、もどかしい感じがあった。奇妙な体験だったので、こりゃ~いいブログネタが見つかったワイ、と喜んでいたのだった(笑)
これだけでも十分おもしろいと思っていたのだが、帰宅後、いつものように友人のブログを見て回っていて鳥肌が立った。あるブログにその施設の写真があったからだ。書いた本人によると、今日、そこに行ったのだと言う。ぼくはそこで初めてその施設の名前を知った。仕事で訪れた時点では知っていたのだろうが、まるで憶えていなかった。ぼくはそのブログの主に、何時頃そこに居たのか聞いてみた。30分ほどそこに居たといい、そしてその時間は予想通り、ぼくが白昼夢?を見た時間とピタリ一致したのだった。
シスの逆襲
今日は定休日だった。天気もいいし、どこかに行きたかったが、数日前に急に機嫌の悪くなった店のパソコンを復旧しなければならなかった。安い部品をかき集めて作ったボロマシンながら、8年以上、ほとんど問題なく働き続けている。Win98と2000のデュアルブート環境なので、2000に問題が起きて立ち上がらなくても、Win98をブートして問題点を発見、解決、という楽なパターンだったのだが、今回はどうやってもダメ。考えるのがめんどくさかったので、ドライブをフォーマットし、まっさらな2000を入れることにした。データは常時専用ドライブに格納するので、バックアップはほとんど不要。フォーマットを終え、Win98のドライブに残ったゴミを掃除し、98を起動。ん?立ち上がらない。ディスプレイの暗黒画面に不吉な文字が浮かんでいる。
「boot.iniがありません」
どうやらぼくは必要なファイルまで削除してしまったらしい。お茶をいれ、パソコンに向かったままひとしきり考えた。マザーボードのBIOSを呼び出したものの、CDのブートには対応していなかった。とにかく簡単に済ませたかった。デュアルブート環境をゼロから構築するのはゴメンだ。とりあえず起動ディスクをドライブに突っこんで考えることにした。黒い画面に白い文字がノロノロ流れていく。ひらめいた。
「sysコマンドだ!」 ぼくは即座にキーボードをたたいた。
A:\>sys c:
暗黒の闇に、輝く文字が並んだ。まるでジェダイの騎士のように。
ガッチャガッチャと、フロッピーディスクが古臭い音を立てる。
真っ黒な画面に白い文字があらわれた。
A:\>sys c:
システムが転送されました.
うまくいった。ぼくは闇を映しつづけるディスプレィを見てつぶやいた。
フォースを信じるんだ。
擬態
死んだふり
店のパソコンが、妙な動きをするようになった。
起動してしばらくは、普通に動く。
が、急に動きが遅くなって、ほとんどスローモーション状態になる。
キーボードをバシバシ叩こうが、ど突こうが、死んだ振りに徹し、主人のいうことを無視し続ける。
ナントカが足りない、という、こしゃくなエラーメッセージが出るが、その原因が分からない。
アタマにくる。ちなみにWindows2000。
写真デビュー
ネットで、好きな写真に出会った。
急に、写真が撮りたくなった。
そこに何か感じるものがあったら、考えずに、とりあえずシャッターを押す。
そんなところからはじめてみようと思った。
ちなみに、使っているカメラは、いわゆるコンデジだ。
親切なボク
朝、近所の奥さんがコーヒーを買いにいらした。
かなり年配の方。
「ここまで電波は届くかしらねぇ」
と言って、コードレスホンの子機を取り出した。
「届くでしょう、目の前だし。試しに通話ボタンを押してみれば?」
ぷぅーーーーー
「ちゃんと届いてますね」
「あら、ほんと。でも、この電話、音が小さくて聞き取りにくいのよー」
「簡単ですよ、その、音量、と書いたボタンをこうして…」
と言って、ぼくは音量ボタンを押した。
「どうです?大きくなったでしょ」
「まあ」
驚いて目を丸くしている。
「ずっと小さな音でガマンしてたのよ」
「よかったですね」ぼくは言った。