全世界は異郷のようなもの

「自分の故郷を愛おしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」
この言葉、フランスの中世の哲学者サン・ヴィクトルのフーゴーの言葉だそうです。
おととい、某新聞の「読書」欄に、ジョナサン・コット著『The Search for Omm Sety』(「オンム・セティを探して」)を翻訳した『転生 古代エジプトから甦った女考古学者』というノンフィクションが紹介されてました。ぼくはその内容に興味を持ち、さっそくネットで調べてみました。すると、この本の翻訳者のブログにたどり着き、その紹介記事を読んで、ますますこの本に興味を持ちました。そのブログの中で紹介されているのが、冒頭の言葉です。含蓄のある言葉だと思うのですが、それを深く味わうためにも、ぜひこの本を読んでみたいと思いました。

妙な喪失感

昨夜、田口ランディさんのブログで、彼女のお父さんが亡くなられたことを知った。1月4日だったそうだ。ぼくは驚き、そして、とても不思議な感じがした。ランディさんのブログはほぼ毎日チェックしていたのだけど、昨年末から更新が止まっていた。ランディさんの記事はメルマガ時代から愛読してたのだけど、特に彼女とお父さんとの格闘?を描いた記事はリアルで印象深かった。今思えば、田口さんのお父さんは「田口ランディ」に含まれていたような気がする。だから、ランディさんのお父さんが亡くなられたことを知ったとき、ぼくは「田口ランディ」も同時にいなくなったような気がしたのだった。これからランディさんはどうなるのだろう。ぼくにとって、田口ランディという作家は特別で不思議な存在だ。
田口ランディさんのHPはこちら
http://www.randy.jp/

ぼくの物語

080125_02
トイレで、ふと思った。
主人公はトイレでも主人公なのだ。
だからトイレの時間もいとおしい。
ぼくの物語はこうして紡がれていく。
ときに主人公をやめたくなるときがある。
そんなときは他人の物語にもぐりこむ。
テレビをつける、小説を読む。
たまにはそれもいい。勉強にもなる。
でも、自分が物語の主人公だってことを忘れてはいけない。
自分で選び、それを受け入れよ。

太陽は一人ぼっち

080124_02
今日はまじめだった。
まず、コーヒーをまじめにいれた。
すると、思ったとおり、いつもよりうまかった。
しかし、まじめに生きるのは難しい。
明日からは毎日まじめに生きようと思う。
まじめだと、こういうことを平気で書けるから不思議だ。
まじめだと、うそをつくこともできない。
だからこうして本当のことを書いている。
本当のことはつまらない。

幸せの階段

080123_02
その階段は、幸せにたどりつく階段。
人は喜んでその階段を上るだろう。
しかし階段は永遠に続き、決してたどり着かない。
でもそれが幸せの階段。

呪文

なんだか悩みがちな日々が続いているのだった。
もちろん、ぼくにも歳相応の悩みは色々あるのだけど。
しかし、ここ数日、みょ~にツライ。
もしかして、これはウツなのだろうか。
ところが、このモヤァ~ッとした、逃げ場のない、漠然とした不安や悩みのようなものが、次の呪文を唱えることで、ウソのように消えてしまうことを、昨夜トイレで偶然発見してしまったのです。
といっても、この呪文、あまり人に聞かれたくないのだけど。
では、その呪文を発表します。
それは「お前はバカだ」です。
みなさんも、そんなときには試してみてください。

オトコの不安

脱サラして8年になるわけだけど、最近、同年の友人たちに比べ、どうも成長が足りんような気がしてしょうがない。遅れを取っているような気がするのだ。友人たちは、組織というヘビーなルツボの中で試され、鍛え上げられ、精錬されていっている。成長しているのだ。一方ぼくは毎日音楽を聞きながらコーヒーを飲んで、気の合うお客さんと好きな話をして、本を読んで、それだけだ。昨日、親友の妻Fがコーヒーを買いに来たので、そんな話をした。まわりの友達はみんな成長していくのに、ぼくだけが止まったままのような気がする、と。すると彼女は意外そうな顔をして「ふうう~ん」と言った。こういう不安は女には分からないのかもしれない。

ネジ

自分のネジが巻けなくなる時ってあるよね。いつものようにネジを巻こうとするんだけど、鍵が合わなくて空回りする。鍵が合わないのは、自分が変わったからなんだろうけど、こんなときは、ただ待つしかないよね。いつか、かちん、と音がして、もとのように巻けるようになる。こんなことに気づくのに、ずいぶん時間がかかった。