夕方、blog「そううつだもの」のあやさんが、フリーペーパー「no request」1号を持っていらした。
収録作品は、短編「貝殻ひろい」
いつもmistyな雰囲気のあやさん。
ぼくの祭り
だれがそうしているのか知らないが、イヤな天気が続いている。まるで世界のネジを逆に巻いたような空だ。こんな日は、そう、踊るに限る。
おどろよBaby !
Dance!Dance!Dance!
踊れ、狂ったように
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考えてみると、常識というものは、人間の意識が元型の侵入を受けて混乱しないように、長い歴史をかけてつくりあげてきたようなものである。しかし、近代までは人間は常識のみならず儀式や祭りなどによって非日常の場を設定し、元型との対応をはかってきた。 — 中略 — しかし、近代になって自我=意識を尊重するあまり、そのような儀式や祭りを非合理なこととして排除したり、拒否したりしてしまった。その結果、元型的イメージが日常の世界において突如として個人に襲いかかるようなことになってきたのである。集団的な祭りをできなくなった現代人は、このために、個人として個人の祭りを日常生活を保ちつつ行うという難しい状況に立たされることになった。
河合隼雄著「イメージの心理学」 イメージと元型 より引用
全世界は異郷のようなもの
「自分の故郷を愛おしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」
この言葉、フランスの中世の哲学者サン・ヴィクトルのフーゴーの言葉だそうです。
おととい、某新聞の「読書」欄に、ジョナサン・コット著『The Search for Omm Sety』(「オンム・セティを探して」)を翻訳した『転生 古代エジプトから甦った女考古学者』というノンフィクションが紹介されてました。ぼくはその内容に興味を持ち、さっそくネットで調べてみました。すると、この本の翻訳者のブログにたどり着き、その紹介記事を読んで、ますますこの本に興味を持ちました。そのブログの中で紹介されているのが、冒頭の言葉です。含蓄のある言葉だと思うのですが、それを深く味わうためにも、ぜひこの本を読んでみたいと思いました。
雨をみていた午後
妙な喪失感
昨夜、田口ランディさんのブログで、彼女のお父さんが亡くなられたことを知った。1月4日だったそうだ。ぼくは驚き、そして、とても不思議な感じがした。ランディさんのブログはほぼ毎日チェックしていたのだけど、昨年末から更新が止まっていた。ランディさんの記事はメルマガ時代から愛読してたのだけど、特に彼女とお父さんとの格闘?を描いた記事はリアルで印象深かった。今思えば、田口さんのお父さんは「田口ランディ」に含まれていたような気がする。だから、ランディさんのお父さんが亡くなられたことを知ったとき、ぼくは「田口ランディ」も同時にいなくなったような気がしたのだった。これからランディさんはどうなるのだろう。ぼくにとって、田口ランディという作家は特別で不思議な存在だ。
田口ランディさんのHPはこちら
http://www.randy.jp/
ぼくの物語
似たものどうし
太陽は一人ぼっち
幸せの階段
愛を描かないから見えてくるなにか
昨夜、久しぶりにおもしろい映画を見た。
それは「パフューム」
この物語の主題に人の愛はない。人のいう愛をイメージするものは描かれていない。匂いや音、光のリズムは言葉を介さず、人の識閾下に直に訴えてくる。神の愛は、人が人である限り理解できない。言葉で捉えられない。理解できないが、感得できる。そう、ゆえに、この映画が醸し出す奇妙なおもしろさは名状しがたい。
つまり、観るしかない。