ぼくの中のラビリンス

111024_06
さっきTwitterを見たら横尾忠則氏がまたおもしろいことをつぶやいていた。
@tadanoriyokoo: ぼくは自分の中の他人の謎を解明するために生まれてきて、絵を描いているのだ。
@tadanoriyokoo: ぼくはぼくの中のラビリンスに鑑賞者を案内したいのだ。時にはぼく自身も迷って出られなくなるけどね。
@tadanoriyokoo: ぼくは自分の言葉は信用しないけれど絵は信用する。
彼は絵を描くことによって自分の中のラビリンスを探検し、表現する。ぼくも探検したいけど、うまく行かない。いーなーー

“ぼくの中のラビリンス” への5件の返信

  1. 表現方法は十人十色 。
    うまくいけばラビリンスではないのでは?
    答えの無い数式だから面白い[E:pencil]
    『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
    ゴーギャンの絵の題名のように・・・[E:art]

  2. そこなんですよー問題は(笑) 表現方法は十人十色 。つまり、ぼくにだって何らかの方法はあるんじゃないか、って思ってしまうわけです、ペーパームーンの歌のように。映画アマデウスで、サリエリがモーツァルトの譜面を読んで陶酔する場面がありました。サリエリはモーツァルトのラビリンスに招待される。でも、サリエリはモーツァルトを自分のラビリンスへ招待できない。優れた音楽や絵画って、chikako~♪さんのおっしゃるように、答えのない問いのような気がします。出口の見つからない探検のような

  3. 私も、うまくいくものではないこそ、目の前に差し出されている気がします。
    うまくいかないその先を追い続けることの繰り返しで、
    それは時々、同じ間違いや、堂々巡りをしているようにも感じますが、
    過去に経験したテーマをひとつ上の段階で学んでいるように思います。
    私にとって、人生はまるで螺旋階段のようです。

  4. たびたびすみません。
    たしかに、表現というのは、地下の世界やラビリンスとか表現されるような場所に足を踏み入れることにおいて、
    血清のようなものだと感じることはあります。
    表現するということは心や体の訓練であるのかもしれないとも最近は感じたりしています。

  5. Komayuさんのコメントを読んでいて、ふと、真の表現者とは、われわれのいるこの地球、さらには宇宙、さらにはその創造された瞬間の意思、ではないかと思いました。つまり、森羅万象は、ある意思を展開したものなのでは、と。海も空も陸も太陽も、草も木も、動物も人間も。そしてぼくも表現されたものなのではないかと。すみません、ひとりよがりなつぶやきです(笑)

コメントは受け付けていません。