小春日和

いい天気が続く。先ほどいらしたお客様は、いまから木市に行くとおっしゃってた。春と秋、川向こうの広場では恒例の植木市をやっている。子供の頃は、小銭を握ってよく行ったものだった。子供だから植木にはサッパリ興味がなく、めあては金魚、カメ、ヒヨコだった。カメは500円、ヒヨコは一匹20円だったと思う。カメや金魚を飼うのは比較的たやすい。初心者でもまずは大丈夫。一方、ヒヨコはけっこう難度が高く、マニア向けの仕様といえた。まず、すぐ死ぬ。めっぽう寒さにヨワイ。ぼくは何匹か死なせた経験がある。死んだヒヨコを、泣きながら一晩中暖めたのを憶えている。たまごっちが死んで泣く子がいるが、感情の出所は同じだろう。しかし、リセットが効かないぶん、ヒヨコの悲しみは切実であった。ヒヨコを買って帰ると、例外なく親にしかられた。ヒヨコは金魚やカメとは違う。金魚鉢では飼えない。すぐに大きくなり、いずれ小屋が要る。それがオスだった場合は悲惨だ。朝暗いうちから人の都合など省みず、けたたましい大音量で鳴く。鳴くなと叫んでも鳴きまくる。はなはだ近所迷惑な動物に変化するのだ。大人はそれを知っているからヒヨコを目の敵にする。かくいうぼくだって、ご多分に漏れない。
ところでぼくは、なにを言いたかったのだろう。
そうだ、ここ数年、木市に行ってないが、今もヒヨコは売っているのだろうか。

目覚まし時計

「おまえ、いいかげん、目を覚ましたらどうだ」
実現不可能なことをいつまでも追い続けていると、親友からこういうアリガタイ忠言を頂くことになる。
言うまでもないが、この場合の「目を覚ます」は睡眠から覚めることではない。ぼくもそうだが、ほとんどの人が、上記の意味では自分は目覚めている、と信じているはずだ。しかしどうだろう。自分がどこから来てどこに行くか知ってる人はいない。自分が何者なのかも分からない。そんなことを考える時、はたして自分は見るべきものが見え、聞こえるべきものが聞こえているのだろうかと訝ってしまう。もしや眠ってるのでは?と考えてしまう。こんなことを書くと、さっそく、「おまえ、なにを寝ぼけてるんだ、目を覚ませ」という声が聞こえてくる。

すごいこと

バルザックという作家はコーヒーを飲みすぎて死んだそうだ。
たぶん、ウソだろう。
ぼくは一日に10杯以上コーヒーを飲む。死にはしないが、日が沈む頃には疲れもあって、意識がふらつくことがある。うちの常連さんはよく知っているが、かなりの頻度でレジを打ち間違う。それと、これは最近気づいたのだが、「すごく」という言葉を乱発しているようだ。たとえば「きれい」を「すごくきれい」という。文章を書くときは、この点は特に気を遣っているのだが、おしゃべりになると、表現を強くしたいあまり「すごく」をつかってしまうらしい。しかし、これは使いすぎると、ぜんぜん「すごく」なくなるのである。

まね

星の王子さまを真似て、自分なりにカッコよく生きたいと思うのだが、うまくいかない。
それなら、あのとぼけた犬、スヌーピーを真似て、ほどほどにカッコよく生きたい、と思うが、案外できそうでできない。
カッコよく生きるのは難しい。

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カウンター

ぼくはカウンターの内側で、コーヒーを点てたり、コーヒー豆を袋に詰めたりする。お客様は、カウンターの向こうに座って、コーヒーを飲む。もちろん、ここは喫茶店じゃないので、コーヒーを飲まずに、豆を買って、さっさと帰られるお客様のほうが多い。ぼくは、カウンターを挟んで、お客様とお話しする。カウンターは、ぼくからお客様を守り、お客様からぼくを守る。カウンターの奥行きは、お客様の体にぼくの手が届かない距離に算定されている。「なぜかここに座ると落ち着くのよね」などとおっしゃるお客様は多いが、その理由のひとつが、案外これである。お客様のボディーゾーンを侵さぬよう、気づかぬところに注意が払われているというわけだ。おかげで、気の弱いお客様も安心してくつろげる。そして今日も、一見、デリケートそうなお客様がカウンターの向こうで、必要以上に安心しきってコーヒーを飲まれていたのである。

ふと思ったこと

毎日ブログを書くようになって、自分の内にある何かが変わったと思う。たとえば、きのうのぼくと、今日のぼくは違う、ということを意識するようになった。人生は、同じ毎日の繰り返しではない、と思うようになった。これは、自分で書いた文章を読む、という作業によって起きていると思う。

ドアの音

こんなことを書くと、ああ、やっぱり、あの男は変なのだ。
と、思われるに違いない。
しかし、敢えて書こう、と思う。
なぜなら、ぼくは疲れている。
いつもは数多あるテーマの中から選ぶだけの余裕があるのだが、今日はない。
さっさと書いて早く寝ようと思う。
ではさっそく本題に移ることにする。
あなたは矢追ディレクターを憶えているだろうか。
という出だしで書きはじめようと思ったが、長い説明を要しそうなので略すことにした。
中略
ぼくは超能力者なのかもしれない。という話である。
夕方、こういうことがあった。ぼくは疲れてぼうっとしていた。
そこに、入り口のドアが開く気配があった。声はなかった。
店のドアは一階にあり、折れ曲がったコンクリートの階段を経て二階の売り場に続いている。
当然、二階に上がりきるまで、お客様の姿はまったく見えない。
それなのに、ぼくの目にはドアを開け、背中を曲げて階段を昇ってくるお客様の顔、姿がはっきり見えていた。そしてそれは二階の入り口に現れたお客様の姿にピタリと重なった。1~2ヶ月おきにいらっしゃる、無口なお客さまであった。
うそのような、ほんとの話である。
それでは、おやすみなさい。

早朝の電話

朝早く携帯が鳴った。友人Fからの電話だった。ふだん、こんな時間に電話してくるヤツじゃないので、なにごとかと思った。友人のだれかが死んだか、事件を起こして捕まったに違いない。
「おう、おはよう、なんごっけ、けなはよから」ぼくは言った。
訳)おはよう。早いじゃないか。なにかあったのか?
「わいや、けさん新聞な見たけ」Fは言った。
訳)君は今朝の新聞を見ただろうか。
「んにゃ、おいは新聞な読まんでや」
訳)ぼくは、あまり新聞は読まない。
「あーいた、おいの写真が新聞にでちょったっどさー。一面に」
訳)ぼくの写真が新聞の一面に出ているんだ。
「ほー、すげね」
訳)それはすごいな。
「あとでもっくっで」
訳)あとで、その新聞を店に持ってこよう。
「んにゃ、家のをみっで、よかど」
訳)家に来ているのを見るから、わざわざ持ってこなくていい。
その写真は、ぼくたちの母校の同窓会を扱った記事の写真だった。某新聞の一面に取上げられている。写真もかなり大きい。ぼくは仕事で行けなかったのだが、一番手前の列で豆粒ほどに写っているのは、確かに彼であった。
朝の疲れは尾を引くものである。夜中の電話と早朝の電話は心臓に悪い。

敢えて自殺について

ぼくはテレビを見ないし、新聞もあまり読まないのだけど、ここ数日、ブログや、ネット上のニュースで自殺がずいぶん取り上げられている。今日、お店でも、一部のお客さんと自殺について話した。ぼくはめったにこういう話をすることはないのだけど、今回は自分の中で、ひときわ大きなわだかまりになっているようだ。
ぼくが日頃読んでいるブログに次のような記事がありました。おそらくTVや新聞には現われないタイプの意見と思います。時間があったら読んでみて下さい。
風の旅人 編集便り「敢えて自殺について」2006年10月30日
田口ランディ公式ブログ「自殺ということ」2006年10月08日
なお、今回のエントリーにコメントがついた場合、返事ができないかもしれません。あらかじめお断りしておきます。

バックアップしてる?

今日は定休日。月末の休日といえば、アレである。パソコンデータのバックアップ。何年か前まではMOというメディアを使って、パソコンを終了する度にバックアップしてた。ハードディスクをクラッシュさせ、データを消失して以来、バックアップはクセになった。でも、最近のハードディスクはクラッシュしませんね。でも、天災は忘れた頃にやってくるのです。いやほんと。あなたはバックアップ、してます?
(もちろん、重要なファイルは月に一回じゃなく、変更、作成のつどバックアップしてます)
ちなみに当ブログも定期的にバックアップしてますよ。