もうひとつの秋

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昨日、カセット ウォークマン販売終了 30年の歴史に幕、という記事を見てから、ぼくのココロはすっかり秋モードになってしまいました。そうか、カセットの時代は終わったのか。わかってはいたのですが、なぜかとてもさびしいです。思えば、ぼくの青春はカセットとともにありました。ソニーからウォークマンが出た当時、ぼくは東京にいたのですが、すぐに購入し、通学の電車の中で愛用してました。
カーステレオ用に溜め込んだカセットテープが納戸の奥で眠っているのですけど、今度捨てることにします。
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10年経って

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うちの店も、今月で丸10年。あ~、もうそんなに経っちゃったのか。というわけで、何か新しいことをはじめてみたくなった。とりあえず、新聞みたいなものを手始めに作ってみた。はじめたからには、続けなくちゃね。
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夕方いらした常連さん。あのころ独身だった彼女も、今はどうどうたるレインボーママ。(いくつに見える?)時の流れるのは本当に早い。

プロトコルエラー

ぼくはテレビをまったく見ないし、新聞もほとんど読まない。それで問題が起きないから、このままでかまわないと思っていた。しかし最近、少し不安になってきた。というのも、家族や友人たちとのありきたりな会話の最中、突然あたかも言葉が通じなくなったかのような、きわめて高いレベルの孤立に直面し、呆然としてしまうことがしばしばだからだ。そのたびぼくは浮力を失った船よろしくその場から沈没してしまう。そのむかし、だれかが、テレビはもう一つの窓である、なんて言っていた。その例えでいえば、窓を持たないぼくは、みんなが知っている窓の向こうの世界を知らないことになる。そう、この世には二種類の人間がいる。電気窓を持っている人と、そうでない人だ。そして電気窓を持っている人たちは、その窓を通して宗教にも似た強い連帯感で結ばれている。なんていうと、ばかばかしい、テレビの見すぎよ、と笑われるに違いない。しかし最近、その窓がやたら高性能、巨大化し、見ている人になにやら呪文をかけているように見えてしょうがない。被害妄想とはこういうのを言うのだろう。ああまたくだらないことを書いてしまった。この窓もさっさと閉じなくては。

雨のうた

ぼくは窓の外を見ている。物思いにふけった雨たちが知らない歌を口ずさんでいる。ぼくは熱い珈琲を飲んでいる。雨の匂いがコーヒーに混ざり、遠い国の花が咲いたようだ。

土手のコスモス

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谷を流れる川に沿って下っていった。15分ほど歩くと傾斜は急になだらかになり、景色が開けて田園風景が広がった。川は稲刈りの終わった田んぼの間を緩い弧を描いて街に向かっている。ぼくは変わらぬ調子で川沿いの道を歩いていった。しばらく歩くと川の土手にコスモスが群生し、風に揺れているのが見えてきた。おそらく風に運ばれた種が時間をかけて少しずつ増えていったのだろう。ぼくはカメラを取り出して写真を撮り始めた。するとどこからか男の声がした。
「きれいやっどが」
訳 「そのコスモス、きれいだろう?」
声のほうを見ると、麦わら帽をかぶった農作業服のオヤジがこちらを見てニヤニヤしている。
「ええ、野生のコスモスはやはり一段ときれいですね」とぼくは相槌を打った。すると麦わらのオヤジはうれしそうに言った。
「そんたーおいが植えたたっど」
訳 「そのコスモスはワシが植えたんだ。どうだ、きれいだろう、がはは」