あの花が予想より早く満開になったというので出かけることにした。北か南か迷ったが、やはり南に走った。
あの島も陸につながっていた。
歩いて渡っている人たち。(クリックで拡大)
山の上の公園にも行ってみた。
派手に咲きまくっていた。
平日だというのに人が多い。仕事をさぼって来ているのだろう。
若葉が目に優しかった。
一日中桜を見てたら目が桜色になった。
夜の散歩者
ぼくもアップデートしたい
レンズのお掃除
星に願いを
さるなのに
砂浜のステップ
屋上菜園の春
女性名詞の「スプーン」は女らしい?
きたぐにの禿山に
ひとり立つ松の木は
むなしくも眠り入る
氷雪におほはれて
夢に見る東方の
はるかなる椰子の木も
かなしげにひとり立つ
灼熱の絶壁に
ハイネ全詩集1(井上正蔵訳)
異なる言語の話し手が、それぞれの母語のあり方ゆえに、同じひとつの現実を違うやり方で知覚することがありうるか。
たとえば、第8章 女性名詞の「スプーン」は女らしい?という章で、書き手はこんな事を述べる。
・・・ しかし、文法的ジェンダーが合理的思考の能力を制約しないのが事実であっても、ジェンダーを持つ言語を母語とする者にとって、状況がある意味で厳しいことに変わりはない。ジェンダー体系は牢獄に近いものになりうるからである—連想の牢獄だ。母語のジェンダーに押しつけられた連想という鎖をふりすてるのはまず不可能である。しかし、英語を母語とする読者が、不合理なジェンダー体系という重荷から逃れられない私たちに同情する気になったとしたら、考えなおしたほうがいい。私はあなたと代わりたいなどと金輪際思わないだろう。私の心は恣意的で非論理的な連想という重荷を背負っているかもしれないが、そのおかげで私の世界は、あなたには想像もつかないほど豊かなのだ。あなたの「it」しか存在しない砂漠に比べて、私の言語の地平はなんと肥沃なことか。ジェンダーが言語から詩人への贈り物であることは言うまでもない。ハイネの男性名詞の松の木は、女性名詞の椰子に恋い焦がれる。・・・
残念ながらジェンダー体系を持たない日本語を母語とするぼくには、ハイネの詩の本当のすばらしさを実感として得ることはできない。そしておそらく文学作品に限らず、ジェンダーを持つ言語を母語とする音楽家、画家の作品から放たれる、その豊かなコントラストも、心の深みで捉えることができない。ううう、な、なんて悲しい・・・かも