寒い一日だった。寒いと家に閉じこもって映画とか見たくなる。久しぶりにプロジェクターを引っ張り出し、録画してあった2001年宇宙の旅を見始めた。この映画、ずいぶんむかし映画館で見たのだけど、その時風邪をひいていて気分が悪くなり、途中までしか見れなかった。今日はソファーにもたれ、ゆったりした気分で見ていたのだけど、コンピューターHAL9000が反乱を起こし、俄然おもしろくなってきたところでブチッ!と映画が終わってしまった。HDDの残量が足りなくて録画されなかったらしい
雨の祝日
ぼくはたぶん疲れていたのだと思う。朝起きると10時10分だった
今日はなんとかの日で、つまり、ほぼ全国的に休日なのだ。休日には日曜祝日に休む休日と平日に休むそれのほぼ二通りある
ぼくの休日は毎週月曜日。一度平日の休みを味わうと、赤い数字の休日には戻れない。そういうわけで、雨も降っているし、今日はドライブに出かけるのは止めて近くの公園に散歩に出かけた
公園には色んな植物が植えてある。買えば高そうな木や、管理の難しそうな草花。「金がかかるだろうなぁ」と、思わず現実的なことを考えてしまう。その金のかかった庭を自分の庭のように歩く。ぼくの金も少し使ってあるはずだし
昼食はスクランブルエッグとフランスパン。そしてコーヒー。スクランブルエッグはぼくが作った。家にじっとしているのももったいないので、いつものウォーキングコースをカメラを持って歩き始めた。折り返し地点の先にある急な坂を上り、明るい梅の咲く田園風景を楽しみながら歩き続けた。坂を下り、川沿いにある民家の庭先に植えてあるロウバイの様子を見に行く。満開の時期をだいぶ過ぎていたのだけど、花はまだ枝にしっかりついていた。特有の甘い香りも残っていた。期待してなかったので得した気分になった
雨の情景
あの頃、夜はまだ暗かった
モノクローム
ウルトラマンは人間ではなかった
本との出会い
出会いはその人の人生を変えていく。人との出会い、本との出会い。最近、ぼくはある本と出会った。今日それを読み終え、すぐにまた最初から読み始めた。理由はショーペンハウアーが「読書について」で指摘しているとおり。この本はぼくにとって重要な本になる。この出会いによって世界は広がりを増し、変化する。
「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな続けて二度読むべきだ。二度目になると内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば出だしをいっそう正しく理解できるからだ。また二度目になると、どの箇所も一度目とはちがうムード、ちがう気分で読むので、あたかも同じ対象をちがう照明のもとで見るように印象も変わってくるからだ。
ショーペンハウアー「読書について」より
because
朝起きて空を見ると、なにも言いたくないくらい晴れていた。こんな日はどこかでスパゲティーでも食べて、草原に寝転がってコーヒーを飲みながら日向ぼっこをするのがよさそうだと思ったが、念のため、ヨッパライ某に何が食べたいか聞いてみたところ、魚が食べたい、とのことだった
魚がうまいところ。今日頭に浮かんだのは、変な顔の犬がいる海が見えるあの店だった。ここの魚定食は、見た目はぱっとしないのだけど、味はバツグン。メニューに、期間限定ウニ丼定食、というのがあってちょっと悩んだのだけど、2500円もしたので、いつものように日替わり定食にした。1080円。とてもおいしかったです。
運転しながら、映画、ベンジャミン・バトン 数奇な人生、の主人公のことを考えていた。彼は何かを求めて旅を続ける。物でも、成功でも、安住でも、名誉でもない。彼にとって、かけがえのない何か。それを求め続けることで、彼は彼になっていく。ぼくも何かを求めて旅を続けている。人生は旅そのもの
イチゴの誘惑
根本的ディレンマな日々
「伝えたいことを伝えることができない」という問題は悲劇的だ。その悲劇の主人公、つまり、ぼくの場合、その、伝えたいことの構造に問題があることが最近読んだ本によって分かったのである。かも。以下抜粋
知識の探求に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、私には分かった」と言うとき、それこそ結論なのである。しかし、それは、この命題を入学したばかりの学生が自分の怠惰を正当化するために使う場合とは、まったく別の事柄である。この命題は、結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。
この点に関して教育の問題は、根本的ディレンマを持っているのではないでしょうか。つまり、みずからの深い実存的「経験」にもとづいてはじめて定義できる事柄を、教育者は、未経験な次の世代に、あらかじめ「結論」として教える立場にある。
すなわち、ある認識は、その中でこの認識が獲得された実存から切り離されることはできない。のです。