アスファルトの穴がよく見える。
今日は浮力が下がっている。
落ちそうで落ちない。ぼくはその辺がうまい。
なにもないのです
冷たい風が吹いている。窓から見える西の空はぼんやり煙って、溶けたノーミソにうまくシンクロしている。ノーミソを起こすためにコーヒーを飲んだ。コーヒーを飲みながら、遠くのカバみたいな白い雲を眺めていたら、ムーミン谷の冬は終わっただろうか。そんなバカなセリフが浮かんだ。そしてなにか古い、とても懐かしい記憶がわき上がる気配を感じて、しばらく待ったが、なにもなかった。
春の青空
晴れているのに空はかすんでいる。
山の向こうに白い雲が見える。
夏の雲と違って輪郭が溶けてぼやけている。
青い水たまりにソフトクリームを落としたような空。
ぼくと君を分けているのは何だろう。
空から降る黄色い砂のせいで境目がはっきりしない一日。
悲しい色やね
第三日曜で定休日。高速道路を走って、この春、福岡に就職した娘に会いに行った。会いに行く、などというと、少し大げさな感じがするが、最近、父親らしくふるまうのも父の務めのような気がするようになってきた。微妙な年頃なのである。アパートは市役所のそばに建っていた。入り口にカメラがあって、人相の悪い男が近づくと直ちに警備員が走ってくるという、バイオハザードみたいな仕掛けがセットされているらしかった。エレベーターの横に、びびる看板があったので、ケータイに撮った。「ブログに載せるんじゃないでしょうね」と、娘にチェックされてしまった。だれに似たのかイヤな性格だ。ちょうど昼飯時だったので、隣の焼肉屋で定食を食べた。食べ終わるとすることがなくなったので「海にでも行こうか」と、提案した。「うみ~~?」芳しい返事は返ってこなかった。車は海に向かって走りはじめた。海が近づくにつれ、変な匂いがし始めた。見ると、海辺に大きな工場があり、高い煙突からモクモクと煙が出ている。堤防が見えてきた。きれいな海じゃなかった。もっと走ればきれいな色の海もあったかもしれない。車をUターンさせ、ショッピングセンターに行った。老若男女、たくさんの福岡の人が買い物を楽しんでいた。ぼくはなぜか福岡の人と相性がいいので、すぐになじんで、いい気分になった。娘に「ここはいいところだな、気に入ったよ」というと、笑っていた。
オトナの会話
馬
いつものことだけど、また変な夢を見た。
なんの脈絡もなく、ぼくは、直径1メートルほどの、石積みの塔をどんどん昇っていく。塔と言っても、その辺に転がっている大きめの石を、ただ重ねただけのもので、のぼっているとぐらぐらする。ついに頂上に達した。恐るべき高さだ。ぼくは降りることができずに茫然とする。すると、後方の空から馬が飛んできた。1頭、2頭、3頭、4頭。次々と飛んでくる。もちろん普通の馬じゃない。背中には立派な羽根が生えていて、悠然と羽ばたきながら飛んでいく。ぼくは塔の頂上から、あきれてそれを眺めている。次の瞬間、なぜかぼくは空飛ぶ馬を追いかけていた。そこで終わった。まるで夢のような夢だった。
Memory Error
73
父が入院した。スーパーをうろついてたら、ふらふらしたので病院に行って診てもらったところ、血糖値が高く、すぐに入院しろといわれたそうだ。ぜんぜん、マッタク心配していない薄情な息子ではあったが、仕事が終わると店を閉め、とりあえず見舞いに行った。病院は大の苦手だが、夜の病院はそうでもなかった。暗く長い廊下を歩く。だれともすれ違わない。病室の番号を聞くのを忘れてたので、各病室にかかっている名札を見ながら、一階から順に部屋を回り、階段を上がった。三階で若い看護婦と鉢合わせになったので、聞いてみた。
「ワタシもちょうどそこに行くところだったので、いっしょに行きましょう」
白いマスクの似合う、20代前半のカワイイ看護婦だった。父の部屋は個室だった。テレビも冷蔵庫もなく、ヒマそうに寝転がっていた。
「老人のフリをするのはやめてくれよな」
イスに座り、うんざりした顔でぼくがそういうと、父はニヤニヤしていた。ずいぶん長いこと付き合っているが、父の正体はいまだにつかめない。ナニを考えてるのか分からない。人の得意技をばらすのは良くないかもしれないが、父は、バカのフリをして相手を油断させ、隙を窺うという姑息なワザが得意である。最近は作戦を変更し、必要に応じてボケ老人を演じているようだ。
まともに相手をしているとえらい目にあう。
思い込み
午前中はけっこうヒマだった。というわけで、F氏から借りていたもうひとつのベストセラー、竹内薫著「99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」を読んだ。この本で著者が言いたいのは、真に科学的な態度とは?ということのようだ。「ね~あんた、科学的な態度ちゅうのは、実は、ほら、こーゆーことなんよ。分かった?あ、わかんない。やっぱりねぇ」という具合に、ひとなつっこく、しつこく問いかけてくる(笑) きっと著者は三度のメシより科学が好きな人間なんだと思う。文中、必要があって著者はクリスチャンであることを証しているが、この著書のおもしろさの所以が、案外そこにありそうだ。クリスチャンゆえの感性、観点がものをいっているように思う。日本のほとんどの科学者は、ある壁をどうしても乗り越えられない、という話を以前お客様から聞いたことがある。自分の感性は絶対的で、普遍性のあるものと思い込みがちだ。アイデンティティを見失うのではないかという潜在的不安がそうさせるのだろうか。日本人の感性が通じない場所、自分の感性が通じない世界はいくらでもある。たとえば、その存在があなたに大きな違和感を抱かせる宗教があるとすれば、それはその一例の可能性がある。一般に、日本人は宗教観念が希薄だ。宗教を科学の対立概念のようにさえ思いがちな一般の日本人読者が、クリスチャンが真の科学を語るという矛盾するスタンスに意外性を覚え、著者の観点をおもしろがっている、というのは深読みしすぎか。このブログはぼくの思い込みで書かれているから、はなはだ主観的で、独善的だ。客観性などどこにもない。いや、せっかくだから科学的な態度で考えてみよう。主体が自分である限り、真の客観など宇宙のどこにもない。というより、宇宙は自分の中にある。ところでこの著書、ある概念について著者自身が思い込みで断定してしまっている箇所がある。「思いこみで判断しないため」というテーマにおいて自縄自縛に陥ってるようで、ぼくはミョーにうれしかった(笑)
第365話
ぼくは自分のイメージ作りにけっこう注意を払うほうである。
たとえば「ぼくは勤勉を絵に描いたような男である」と、仮にここで述べても、見よ、だれ一人異論を唱えるものはない。なぜなら
「このブログ、毎日欠かさず書かれているみたいだわ」
という、誰の目にも明らかな事実がここにあるからだ。
毎日ブログを書くだけで「勤勉な人」というレッテルを貼るには、いささか抵抗があるという向きもあるかもしれない。ヒマを持て余しているだけじゃないか、というわけだ。そのとおりである。しかし心配には及ばない。つまり、これは当ブログが醸し出す固有のムードに負うところが大きいのだが、ここに100円ショップで購入した一見ブランド品に見えるペンがあったとしよう。ぼくが持つと、だれもがそれをモンブランと信じて疑わない。それと同じことなのである。
このブログが今日で丸一年経ったことに気づいた。totto*さんのブログのおかげである。どうやら、ぼくが勤勉である、というイメージも、つつがなく定着したようにみえる。どうでもよさそうなネタで埋めているだけじゃないか、といわれれば、そのとおりなのであるが。