お菓子担当のN君がケーキを持ってやってきた
ぼくがいただいたのはこれ。とてもおいしかったです
お菓子担当が貼り付けていったポスター。もうこんな季節なんですね。一年って、あっという間
「伝えたいことを伝えることができない」という問題は悲劇的だ。その悲劇の主人公、つまり、ぼくの場合、その、伝えたいことの構造に問題があることが最近読んだ本によって分かったのである。かも。以下抜粋
知識の探求に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、私には分かった」と言うとき、それこそ結論なのである。しかし、それは、この命題を入学したばかりの学生が自分の怠惰を正当化するために使う場合とは、まったく別の事柄である。この命題は、結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。
この点に関して教育の問題は、根本的ディレンマを持っているのではないでしょうか。つまり、みずからの深い実存的「経験」にもとづいてはじめて定義できる事柄を、教育者は、未経験な次の世代に、あらかじめ「結論」として教える立場にある。
すなわち、ある認識は、その中でこの認識が獲得された実存から切り離されることはできない。のです。
「自分が好きなものだけはわかる。それも頑としてわかる。それだけは確かね」
これ、白洲正子さんがある本の中で言っていた言葉。
好きなもの、好きなことがあれば、それだけで前へ進める。
昨年の8月、路地裏を歩いていたら変な車が前から走ってきた。googleって書いてある。もしかしてあれかな、と思って振り返ったのがこの写真。ついにストリート・デビュー。顔はないけど。
始まりがあれば終わりがある。短いようで、やはり短かかった休暇も今日で終わり。しかも最後の休日は明日の仕事の準備。だれが決めたのか。ぼくに決まってる。文句があるなら自分に言え
「苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」
これはフランクルの「夜と霧」に出てくる一節。最近、やっとこの言葉が実感を伴って理解できるようになった、よーな気がする。その実感とは意外なことに「解放、自由」の語義の感覚に近い。つまり、苦悩しつづけ、死を人生の一部としてとらえたとき初めて人間としての解放、自由を味わい知ることができる、そんな感じだ。逆のようだが、解放と自由は苦悩と死の中にある。
今日は家でコーヒーばかり飲んでいたのだけど、何もせずにじっとしていると、小人閑居して不善をなす、のことわざ通り、ろくでもない悩みが次々と泡のように浮かんできて苦しくなってきた。思わず家を飛び出しウォーキングに出かけたのだけど、遊歩道を歩きクールダウンが進むに従い、そのろくでもない悩みを他人のそれのように距離を置いて眺めることができ、少し楽になった。やれやれ