根本的ディレンマな日々

「伝えたいことを伝えることができない」という問題は悲劇的だ。その悲劇の主人公、つまり、ぼくの場合、その、伝えたいことの構造に問題があることが最近読んだ本によって分かったのである。かも。以下抜粋

知識の探求に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、私には分かった」と言うとき、それこそ結論なのである。しかし、それは、この命題を入学したばかりの学生が自分の怠惰を正当化するために使う場合とは、まったく別の事柄である。この命題は、結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。
この点に関して教育の問題は、根本的ディレンマを持っているのではないでしょうか。つまり、みずからの深い実存的「経験」にもとづいてはじめて定義できる事柄を、教育者は、未経験な次の世代に、あらかじめ「結論」として教える立場にある。
すなわち、ある認識は、その中でこの認識が獲得された実存から切り離されることはできない。のです。