まるで魔法をかけられたようにみえる。
「考え方がどんどん狭くなって辛いのです」
初老の科学者は見えないボールを手ですぼめるような仕草をしながら微笑んだ。
トレードマークだった磊落な笑いは消えうせ、なにかに怯えているような目つきでぼくを窺い見る。
交通事故をきっかけに精神を病んでしまったそうだ。
暗い魂の奥からおびただしい数の触手が伸びてきてぼくにまとわりつく。それほどに救いを求めている。
しかしそれはぼくの一言で瞬時に引っ込んでしまう。
雨に濡れながら歩いている人に傘を差してあげられない。
謝るのもおかしな話だが、本当にどうしようもない。
サボテンの花
天気のいい日曜日。ぼくは仕事。
それは悲しいようで、やはりうれしい。
見かけ上、しあわせは相対的なものである。
うれしい人に囲まれると、悲しそうにみえる。
まわりが利口そうなヤツばかりだとアホに見える。
こんなことを書くと、あたまが日曜日だと言われる。
日曜日だから、これでいいのである。
冬、天気のいい日曜日の朝は、この曲をかける。
それはチューリップの「サボテンの花」
—————————–
ほんの小さな出来事に 愛は傷ついて
君は部屋をとび出した 真冬の空の下に
編みかけていた手袋と 洗いかけの洗たくもの
シャボンの泡がゆれていた
君のかおりがゆれてた
—————————–
「シャボンの泡がゆれていた」
この一言で、ぼくの気持ちは冬の晴れた日曜日になる。
アスファルト
Booon
臆面もなく深刻ぶった話は続く。
きっと、冬のせいだろう。
決して、自分のせいにしないところがぼくらしい。
冬になると微熱が出るのである。
そういうことにしておいて欲しい。
海の上を飛び続ければ、いつか海に落ちる。
谷を飛べば山にぶつかるかもしれない。
冬は落ちることばかり考えている。
おそらくぼくは病気だ。
そういうことにしておこう。それが答えだ。
おかげでぼくは低空飛行がうまい。
自己嫌悪
ごみだめの横で子猫がないていた。
とおりかかった女学生が足を止め、かがみこんで、頭をなでる。
子猫はかわいいから、拾われていく。
しあわせな猫。
数日前の寒い夜、店の近くで見た猫はひどく見苦しかった。頭の毛は抜け落ち、片目はつぶれ、悪魔のような低い声でないていた。
こういう猫は、なかなか頭をなでてもらえない。
かわいそうな猫。
目が悪く、耳の悪い人が頭をなで、連れ帰る。
見える人には隠されてしまうものがある。
持っていると見えなくなる大切なものがある。
失うことで得られるものがある。
せつない朝
寝ぼけマナコで家を出た。
車は東向きのガケに沿って下っていく。
遠くの山々まで見渡せる、見晴らしのいい道だ。
ラジオをつけると「青春の輝き」が流れ出した。
カーペンターズ。今は亡きカレンの声。
その時にわかに雲が開け、車は朝の光に包まれた。
不意打ちを食らったように、せつない気分がこみあげてきた。時間が止まり、カレンの笑顔がフロントガラスいっぱいに広がった。
涙が出そうになった。
ぼくも年をとったようだ。
古いワインの澱が揺さぶられ、舞い上がる。
それは小さな瓶の中の出来事。
ひきだし
時々箪笥の夢を見る。その夢の中で、ぼくは子供だ。六畳ほどの暗い部屋に置いてあるその箪笥には、引出しが数え切れないくらい付いている。ぼくは誰も来ないのを確かめながら、次々と引出しを引く。そういう夢を時々見る。引いてはならない引出しがある。
目の前に人がいる。それは引出しのたくさん付いた箪笥。ぼくは気をつけながら引出しを引いている。
つもりなんだけどな~(笑)
種を蒔く男
日曜の夜は今週の終わりだ。
もしかすると今週を振り返って反省してる人もいるだろう。
ぼくはいないと思うけど。
しかし、今週は疲れた。仕事ではなく。
かくして、ぼくは次のような言葉を耳にすることになる。
「自分で蒔いたタネでしょうが」
なんという建設的な言葉だろう。
種を蒔く。いい言葉だ。
朝の風景
今朝は寒かった。
車を暖機してる間、道路で朝日を浴びていたら、太陽を背にして一台の自転車が走ってきた。
前のバスケットに犬を乗せている。
かなりのスピードで目の前を通り過ぎていった。
自転車が小さくなっていくのを見ながらぼくはつぶやいた。E T
トウカイリンさん
今朝もラジオを聞きながら車を走らせていた。
パーソナリティが、「トウカイリンさんからのお便り…」といい始めて、こう付け足した。「東、海、林と書いて、この方はトウカイリンさんとお読みするんですね。前回、『ショウジさんではないのですか?』というご質問がたくさん寄せられたのですが、大丈夫、この方はトウカイリンさんでいいのですよ~」
ぼくはトウカイリンという名を何度か耳にしてたので気にならなかったのだけど、わざわざ放送局に問い合わせるヒマな人が、しかもたくさんいると知って、なんだか急に疲れが出た。そのままラジオを聞いてると映画紹介コーナーが始まった。映画評論家らしい女性と電話がつながり、紹介された映画は、まだ公開されてないという邦画だった。「この映画は、グンヨウコさんの原作で…」電話の声が話しはじめた。おや?グンヨウコって、群ようこのことかな?ぼくは今まで、ムレヨウコ、と信じていたのだった。気をつけないといけないな。ぼくは急に不安になった。ぼくは読み間違って憶えている漢字が多い。電話の向こうの声がひとしきりしゃべったところで、パーソナリティが言った。「あ、ムレヨウコさんですね」パーソナリティは話が淀まないようにさらりと訂正し、先を促した。うまいな、と思ったが、ぼくは一段と疲れてしまっていた。


