土曜日の朝

今日は土曜日。毎日が日曜日だと退屈そうだが、毎日が土曜日だと何かいいことが起きそうな予感がする。朝、ヨッパライ某がウォーキングに出かけている間にコーヒーを点てる。彼女はモカが嫌いなので、自分一人で飲むときはモカを淹れる。モカを飲み終わるころ、ウォーキングから帰ってくる人のために続けてゴールデンビートルを淹れる。コーヒーを淹れる作業は理科の実験に似て楽しい。水温計、ビーカー、漏斗、濾紙、ストップウォッチ、バーナー

恋する目で見る世界

今日は病院。朝、7時21分のバスに乗った。時刻表では7時56分に到着するはずだったが、到着したのは8時27分だった。8時30分に来てください、とのことだったので、病院まで走った

帰りのバス。行きも帰りも本を読んでいたのだが、そのなかに「それは確かに恋する目で見る世界に似ていた。大空は人々と一体になり、鳥は人々を通して歌った」とあった。恋する目で見る世界。ぼくはすっかり忘れていた。退屈な風景も恋する目で見ると俄然、生き生きと輝きだす。そうだ、今日からぼくは恋する目で世界を見ることにしよう! いやー今日はいい言葉に出会えたぜ。ちなみにバージニアウルフの灯台へという本。寺田寅彦は随筆「科学者とあたま」でこんなことを言っていた。「頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはり、その恋人にのみ真心を打ち明けるものである」。そう、恋する相手は人間でなくてもいい。愛の反意語は無関心だという。愛と恋は違うが、心を開き、関心をもって見つめれば、それは恋する目で見るのと同じ効果が表れるかもしれない

昼食はアベックラーメンで作る冷やし中華。ほんとにうまい。昼食を終えたころ金曜日の男が現れた。いわく、今日はなんの日か知っちょっか? 知らん、というと、トーフの日よ、10と2でトーフ。あ、そう。ぼくはそれで思い出した、昨日はコーヒーの日なのだった

昼食後、近くの運動公園に行って散歩。いつもの木々、せせらぎの音、空を流れる雲。関心をもって注意深く見つめる。恋する目で

もう寝ます

写真を撮りながら小学生の夏休みの絵日記のよーな体裁を保ちつつ、書いた内容に責任を持つ気はない、というモットーのもとに書いているせいか、意外と長く続いている。今日もいろんなことがあったので、記録としてそれを書いておいた方がいいのかしばし考える。例えば、熱帯雨林からある工事に使う主要なブツが届いた。その工事は結構面倒だ。脚立を立て、体のバランスを取りながらドリルやいろんな工具を使って作業を進める。力も必要、かつ、指先を使う細かい作業を含むので目や神経も疲れる。作業の流れを頭に描き、イメージトレーニングをしたあと道具をそろえて脚立を立て、作業をスタートさせる。7時過ぎには終了させることができた。ほかにもいろんなことをしたのだが、短く書けそうにないので終わることにする

ロッシュ限界

水曜日の朝はここにいる。ことが多い。引力を忘れた月が浮かんでいた

ピンクの透明な貝。名前は忘れた

他人が同じ事をやっているとバカにするのだが

一週間分の買い物を済ませ、家に帰って食事。ヨッパライ某の母の施設に寄ったあと、少し南に下って猛獣の叫び声が聞こえるバラ園に出かけた。いつものようにバラの匂いを嗅いで回ったが匂いは弱かった

言い訳に聞こえるかもしれないが、この物体からは強い引力が出ている。ちなみにきれいな女の子から出ていることもある

キバナコスモスかと思ったらマリーゴールド

今日はゴールデンビートル。引力が出ている物体は多い

朝の心象風景

起床6時30分。8時すぎ、ヨッパライ某に頼んで録画しておいた日曜美術館「草間彌生 〜無限の網 永遠の水玉〜」を見ながら朝食。寝ぼけているせいか、草間さんが画面に登場するたびに空間が狂って曲がるような感じがした。この人は超能力者なのかもしれない。久しぶりにいいものを見た

屋上に上がって海を見ると、知林ヶ島が煙った空に浮かんでぼくを呼んでいた。写真に撮っていると雨が降り出した。今日も雨か

雨に打たせるため、軒下のイチジクを外に出した。朝の珈琲はフレンチ

今日は35mmレンズで撮りました

先月、台風が近づいた時、風のせいでミニトマトの苗の枝が折れまくり、無残な姿になった。無駄だろうと思いながらも折れた枝をヒモで支柱に固定して様子を見ていたが、そのうち忘れてしまった。最近、急に花が咲き始めたのに気づいていたが、今日、まじまじと見たら、折れた枝の付け根が盛り上がって宇宙生物のように見事に修復していた。トマトの苗を育てたのは初めてだったが、こいつはなかなか生命力があると思って感心した。来年も植えよう

海に台風がいるせいで低気圧病のヨッパライ某はダウン。ぼくは近くの運動公園に行くつもりでいたが、時々雨がぱらつくのでやめた

例年、レジの上で泳いでいるクラゲは秋分の日にいなくなることになっているのだが、忘れていたので、今日、段ボール製の家に帰ってもらうことになった

代わりに、Nさんからいただいたニールスボーアの原子模型をぶら下げた

日曜日といえば

日曜日。午前中は珈琲を焙煎していた。以前のように張りつめて仕事をしている感覚はないが、一定の緊張感はある。それは年齢に相応した無理のないもの。焙煎を終え、自分のために珈琲を淹れる。今日はドライオンツリー。集中を要する作業の後で飲む珈琲は格別だ

昼食後、屋上に出て、風に吹かれながら本を読む。飛んでるトンボもめっきり少なくなった。昨日はキイロスズメバチがあいさつに来た。ハマヒヨドリは相変わらず忙しそうに近くを飛び回っている。この鳥は獲物の残骸を散らかして飛んでいく。今日はテーブルの横にカマキリのカマが落ちていた。今はどうか知らないが、日曜日といえばカレー。夕食はタイカレーを作った。ボケ防止のことも考えて、カレーは定期的に作る

コーヒー片手に

昨日からまたユクスキュルの「生物から見た世界」を読み返している。前回読んだのは今年の4月20日。手術前の検査で入院しているとき。なぜ何度も繰り返し読むのか。それは深いところからこみあげてくる恐怖心から。ぼくは常識の海に沈むのが恐ろしい。それはいうなれば、自分が「裸の王様」であることに気づかない、あるいは忘れてしまうことだから。4月20日のブログにぼくはこう書いている。「ぼくはこの主観的世界の中で生きていることを自覚しながら日々楽しんでいる。でも、常識的な日常生活は、気づかぬうちにぼくをそこから連れ出してしまう。そうなるとぼくの人生は冒険の様相を失ってつまらなくなる」と。泳いでいる魚は自分が濡れていることに気づかない。ぼくが言いたい「裸の王様」とはそういうこと。メタ認知能力みたいなはなし。「松岡正剛の千夜千冊」で彼はこう書いている。


フォン・ユクスキュルとダーシー・トムソン。この2人の名。若き日のぼくが聞き耳を立てたアーティストたち、たとえば杉浦康平、磯崎新、河原温、ナム・ジュン・パイク、奈良原一高、川田喜久治、武満徹、大辻清司、北代省三……たちが、この2人の名をしばしば口にしていた。「やっぱりユクスキュルの環境世界という見方が必要なんだよ。ダーシー・トムソンの生物から見たデザインだよね」。
1970年前後の話だが、そのころアーティストやデザイナーや写真家や作曲家は自分が世界を切り取っているのか、世界が自分を切り取っているのか、そんな問題を口角泡をとばすように交わしあっていた。人間は自然にフィルターをかけて歪曲して再生しているのか、それとも自分の心象を世界だととりちがえているのか、そんなことをよくよく考えていた。そのころ27歳か28歳だったぼくは、そうか、そこまで考えているものなのかと感心した。さっそく読んでみた。とくにユクスキュルだ。なるほど、断然にすばらしい。以来このかた35年ほどがたったけれど、この本はいまなおぼくの大事な大事なアンチョコになっている。


この本はいまなおぼくの大事な大事なアンチョコになっている。と、彼は書いている。その通り。ぼくにとっても、いまなお大事な大事な大事な、これは人生マニュアルなのです。というわけで、さっきまでこの本を訳した日高敏隆さんの「動物と人間の世界認識」を読んでました。コーヒー片手に、麦わらをかぶって。

ビールなしの月夜

昨夜眠れなかったせいか泥のように眠り、目覚めたのは8時を回っていた。10時に寝たので10時間泥沼に沈んでいたわけだ。同じ格好で長く沈んでいたせいで、体の関節がうまく動かず、しばらくはベッドから降りてもうまく歩けなかった

顔を洗い、鏡を見るとコブ取り爺さんが情けない顔でこちらを見ていた。今日はだれにも会いたくないと思った。お昼ごろ、金曜日の男がやってきた。最近目のあたりが・・・と、体の不調をヨッパライ某に訴えていた。ぼくは顔の右半分が見えないように斜めに構え、テキトーにしゃべった。夕方、仕事帰りに山男がやってきた。コーヒーを飲んで帰るころには日は沈み、月が上っていた。彼はスマホを取り出し、月に向けて写真を撮っていた。

眠れない夜

連休が終わったので、今日は久しぶりにドライブに出かける予定でいた。ウイークデイの休日を経験すると、もう土日、祝日に遊びに出かけようとは思わなくなる。どこへ行こうか。東か西か。北か南か。候補を2か所に絞り、明朝起きた時の気分で決めようと考えてベッドにもぐりこんだ。午前1時20分。歯茎が痛くて目が覚めた。下の前歯の手前。一年に一度、疲れやストレスがたまっている時に腫れることがある。ズキズキしてがまんできないくらい痛い。薬箱に何かないか探すと、バファリンがあったのでそれを飲んで寝た。が、まったく効かず痛くて全然眠れない。そのまま朝が来た。結局行きつけの歯医者に行って処置を受け、薬をもらっておとなしく家にいることになった。痛みは引いたので、出かけられないこともなかったのだが、頬がコブ取り爺さんみたいに腫れ上がり、ちょっと出かける気分になれなかった。