微熱少年の休日

今日は第一火曜日で仕事は休み。どこか遊びに行きたかったが、昨日打った2回目のワクチンが効いて、ヨッパライ某が38度以上の熱を出してダウン

ぼくも37度ちょっと出たが、何ともないのでどこか遊びに行こうと思ったが、病人を残して出かけるのも気が引けたので家にいることにした。冷蔵庫に冷ご飯があるからそれでピラフでも作って食べてね、というので、仰せの通りにした。皿に盛ると早く冷えるのでどんぶりに盛って食べた。自分で作るとなんでこんなにうまいのだろう。思わずお代わりをしてしまった

体が熱っぽいせいか、冷たいものが欲しくなる。ポカリスエットとスイカで体を冷やしながら一日を過ごす

せっかく家にいるので、先日届いたスピーカーユニットを取り付けてみることにした。今使っているユニットは明瞭で明るい、元気な音が持ち味。悪くないのだけど、もう少し、人生に疲れた感じというか、陰影を帯びた音が表現できないかな、と思い、試しに最近出たユニットを取り寄せてみたのだった

蛇の抜け殻のような妖しいデザイン。トンボの翅にヒントを得て作ったのだそうだ。井戸のような暗さ、陰のある音が表現できそうな予感。うふ

取り付けてみました。馴染ませるためしばらく音楽を流し続けたあとで聞いてみると、音の趣がこれまで使っていたユニットとはまるで違うのにびっくり。明るい音でも暗い音でもない。ユニットのインピーダンスが変わったせいで、中低域のボリュームが薄くなってしまったので、熱帯雨林にコンデンサーを注文。コンデンサーを追加した後で再試聴し、バックキャビティの吸音材の量などを調整するつもり

AVアンプをポチった

Netflixやプライムビデオなどネットで配信されている映画をプロジェクターでも見たいと思い、AVアンプをポチった。これに先日手に入れたブツを突っ込み、リモコンのマイクに向かって、今夜はアポロ11を見たい気分かも、とつぶやくと…

ちなみにこのドキュメンタリー、映像が緻密で美しく、何度見ても飽きない

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某F少年オススメのセミフ・カプランオール監督の三部作から「卵」。この映画、なにかが違う。トルコの映画だからだろうか。DVDのメニュー画面もただごとではない。空中にぽっかり浮かんだ明朝体?の卵の文字がいきなりゲシュタルト崩壊を起こして謎のシンボルに化ける。明日は三部作の二番目「ミルク」を見る予定。メニュー画面が楽しみ

バッドマン ビギンズ

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ツユが終わった。
終わらないと始まらないものがある。
失わないと得られないものがある。
得ることによって失うものがある。
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大切なのは・・・
心の思いを行動で示せるかだ。
(バットマンの言葉)

とても残念なことなのかもしれませんが

数日前、NHKの衛星放送で「天国の日々」という映画が放送された。ずっと前から見たいと思っていた映画のひとつだったが、まだ見ずにいた。とにかく映像が美しい、と評判の作品だった。そんなわけで、ぼくは映画館で見るか、でなければハイビジョンで見たいと思っていた。今回はハイビジョンで放送されていたので、すぐに録画予約をした。たぶん、明日見ると思う。さっき、AMAZONのDVDレビューを見てきたら、おもしろいレビューがあがっていた。

以下引用

★★★★★ とても残念なことなのかもしれませんが, 2003/11/1
By     なら夫
レビュー対象商品: 天国の日々 [DVD] (DVD)
とても残念なことなのかもしれませんが、この作品は映像機器を選びます。この作品、テレンス・マリックの映画というより、ネストール・アルメンドロスの映像詩と言った方がおそらく正しい。ストーリーからの物語ではなく、映像そのものから伝わる物語に身を委ねるべき作品です。作品が映像機器を選ぶなんて傲慢なことのように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この作品にとって、それは、仕方の無いことなのです。と言うより他に何も言い様はありません。・・・ ただ、最大限にその映像再生環境を整えて、この作品に臨んだ時、この作品が与えてくれる悦びはとてつもなく大きなものとなります。

ある日どこかで

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さっきまで、ある方よりお借りした「ある日どこかで」という映画を見てました。切なかったな~。でも、こういう映画、大好き。山田詠美が何かに書いてたんですが、切ない、に対応する英語はないらしいですね。この「ある日どこかで(原題 Somewhere in Time)」はアメリカ映画だけど、あちらの人はこの映画を見て、どう感じるんだろう。「悲しい」のかな。切ないといえば、「惑星ソラリス」も恐ろしく切ないよね、「悲しい」のではなくて。あれは旧ソ連の映画だけど、ロシア語には「切ない」に相当する言葉はあるのかしら。

ぼくらはみんな生きている

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昨夜はニンニクの効いたモツナベを食った後、お客さんからお借りした「潜水服は蝶の夢を見る」という映画を見た。これは同名の著書を映画化したもの。以下、アマゾンの著書紹介から。
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著者のジャン=ドミニック・ボービー氏は、1952年生まれ。ジャーナリストとして数紙を渡り歩いた後、世界的なファッション雑誌、『ELLE』の編集長に就任しました。名編集長として名を馳せますが、1995年12月8日、突然脳出血で倒れ、ロックトイン・シンドロームと呼ばれる、身体的自由を全て奪われた状態に陥ってしまったのです。まだ働き盛りの43歳でした。病床にありながらも、唯一自由に動かせる左目の瞬きだけで本書を「執筆」しました。本書は大きな話題を呼び、フランスだけでなく、世界28か国で出版される世界的なベストセラーとなりました。しかし、1997年3月9日、突然死去。本書がフランスで出版されたわずか2日後のことだったのです。
 ———–ここまで————-
さて、突然ですが、みなさんは生きている、という実感を味わったことがあるでしょうか。おそらく、気がついたらすでに生きていたはずなので、つまり、生きている状態がふつうだったから、特にそう感じたことは案外ないかもしれません。一度死んでみたら分かるのでしょうけど、なかなかそういうわけにもいきません。ところで、失うことで得るもの、あるいは、失わないと得られないものって、ありますよね。映画の主人公は、突然、身体的自由を全て奪われてしまったわけです。ぼくは勘繰るのですが、きっと、彼は何かを得たに違いありません。それは、もしかするとぼくたちが一生かかっても手に入れられない何かで、しかも、それは人が人生すべてをなげうってでも得るべきであろう、何か。それはたとえば、ヨブ記のヨブが苦難の末に悟った何か。ぼくはこの映画を見ていて、そんな気がしました。

二度は死ねない

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某F少年から借りていた、映画「めがね」を見た。舞台は、とある南の島。そこはケータイの電波も届かない、なんにもない。でも、浜辺では、変なオバサンがカキ氷を売っている、かもしれない。ぼくは海のそばの某レストランに行く。変なオジサンがコーヒーを飲ましてくれる。でも、最近、閉まっていることが多い。ケータイの電波が届くようになったからだろうか。気が向いたら自分でも生きてみるべ

人の心を持ったサルは人間か

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「むかしね、テレビの日曜洋画劇場でこんな映画があったんだけど、だれに聞いても分かんなくて、見たくても見ることができないんですよ」お客さんはカウンターにカップを置くと、残念そうに首を振った。彼は天気のよい休日、手入れの行き届いた古いバイクで、一人、山道を走り、その帰りにコーヒーを買いにくる。「車は海へ走るのがいいですが、バイクは山ですよ」彼の美学ではそうなってるらしかった。彼が帰ったあと、ぼくは彼から聞いた映画の内容をもとにネットで検索してみた。案外簡単に見つかった。ジャージ・コジンスキー原作「Being There」(邦題 チャンス)。主演ピーター・セラーズ。翌日、店にいらした映画通の常連さんに、こんな映画があるらしいですよ、と話すと、早速ツタヤで借りてきてくださった。観てみるとなかなかおもしろい。この映画、現代社会を風刺したユーモアたっぷりのコメディとして十分楽しむことができる。でも、一たび主人公の立場に立って、その深い孤独に目をやると、この作品の持つ別な面が見えてくる。その孤独は、主人公が知能発達不良とも受け取れる「純粋無垢な心」を持ち続けていることに由来する孤立に見える。純粋無垢な心とはなんだろう。聖書にある「神は自分に似せて人を作られた」時点における「穢れない心」だろうか。もしそうなら、主人公はこの現代社会にあって神そっくりのまま振舞っているのだ。ぼくの解釈は飛躍しすぎかもしれない。でも、この作品をそういう視点で見ると、奇妙なラストシーンを含め、いくつかの違和感が解消される。聖書の記述によればイエスを真に理解するものはついぞ現われない。というより、定義的に人はだれも神を理解できない。しかしイエスは言う。「だれでも私につまずかないものは幸いです」。イエスは人として生まれたが、人の中にあって孤独だった。さて、翻って、映画チャンス。この映画の鑑賞者は主人公チャンスをどのように見るだろう。知能レベルの低い子供のような男と見るか、それともそこに「神に似せて作られた者」を見るのか。作者はぼくらにこう言っているように思える。
「だれでも彼につまずかないものは幸いです」

愛を描かないから見えてくるなにか

昨夜、久しぶりにおもしろい映画を見た。
それは「パフューム
この物語の主題に人の愛はない。人のいう愛をイメージするものは描かれていない。匂いや音、光のリズムは言葉を介さず、人の識閾下に直に訴えてくる。神の愛は、人が人である限り理解できない。言葉で捉えられない。理解できないが、感得できる。そう、ゆえに、この映画が醸し出す奇妙なおもしろさは名状しがたい。
つまり、観るしかない。