ぼくはユウウツだった。ある新商品を仕入れ、テストしていたところ、不具合が見つかったのだ。技術的な問題なので問屋を通さず直接製造元に問い合わせることにした。ユウウツなのは製品の不具合自体より、その製造元が大阪の会社であることだった。サラリーマン時代、ぼくは大阪に仕入先を持っていたが、その担当者の口の利きようが、いちいちぼくの繊細な神経を逆なでし、とにかく癇に障るのだった。案の定、電話に出た担当者は大阪弁だった。
「へぇーほんまでっか。おっかしいなー、なんでやろ」
くそっ、それが聞きたいから電話してるんじゃないか。それに初めてなんだから、そんなになれなれしくするなってば。まったくどうかしてるぜ、大阪は。
SAYURI
昨夜はF少年から借りた、スピルバーグ監督のSAYURIをみた。舞台は第二次世界大戦中の京都。なのだが、なぜかぼくの中では、どうしても京都になってくれない。すぐに近未来のサイバー都市になってしまう。「ここは日本の京都なんだ」と何度自分にいいきかせても、ブレードランナー的な未来都市に落ち着いてしまうのだ。たぶん吹替えなしで見たせいだろうが、それにしても、ぼくのアタマって変。芸者物語としても十分楽しめたが、環境BGV風に使ってもおもしろそう。
夜。窓をたたく雨。明かりを落とした部屋でカクテルを傾ける二人。 BGVはSAYURI。 もちろん、吹替え、字幕スーパーなしで。
空の青
晴れた日曜日
空が明るい。
こんな天気のいい日に仕事をしてるなんて。
オレってバカみたい。
こんな日は、オープンカーで海岸線を走るのが正しいのだ。
音楽はスティーリー・ダン。
途中でアイスクリームを買って、砂浜に寝転んで食べる。
そうだ、スコップを持っていこう。
穴を掘って、あいつを埋めるんだ。
DanceDance2
ここ数日、暖かい日が続く。啓蟄にはまだ早いが、ぼくの中で眠っていたナニかがザワザワ動き出した。繊毛虫、鞭毛虫、スピロヘータ、寄生虫、etc. etc。そいつらが手をつないでラインダンスを踊っている。DanceDanceDance.
甘い午後
ボクの仕事のイイところは、仕事中、好きな音楽を聴きながらおいしいコーヒーを飲み、ヒマな時間に好きな本を読んでも、だれも文句を言わないところである。ところで、本を読んでいると、なぜか甘いものが欲しくなる。特に漢字の多い小難しい本を読んでいる時にその傾向が強い。おそらく、脳が糖分を消費するからであろう。体を動かすと腹が減るのと同じ理屈だ。つまり、小難しい本にはダイエット効果があるのである。では、ダイエットはしたいが本を読むのは億劫だ、というモノグサな人はどうすればいいか。映画はどうだろう。たとえば小難しいフランス映画には相応のダイエット効果が期待できそうだ。しかし、いくつかの例を見る限り効果は薄いようである。
瞳を閉じて
昨日は定休日。目覚めると9時だった。寒くてベッドから出られない。ベッドの中は温室のようにホンワカしている。ふとその時、かすかな女性の声がぼくを呼んだ。ような気がした。それはたぶん、南の海に面したフラワーパークの方角からだった。ような気がする。ぼくはベッドから這い出し、コーヒーをポットにつめ、音楽を準備し、車を南に走らせた。池田湖畔の静かな公園でコーヒーを飲みつつ、どこで昼食をとるか迷ったが、開聞山麓にある「花と香りの店」でAランチにすることにした。Aランチとはペルー風おじやとサラダとスープのセット。デザートはハイビスカスのシャーベットにした。ペルー風おじやに生のハーブを千切って入れると、気分はもう、すっかり春、なのだった。フラワーパークに着いて、まず図書館でパスポートの更新を済ませ、園内の南はしにある西洋庭園に向かった。裸足になって芝生に寝転がり、目を瞑るといろんな音が聞こえてくる。風のそよぎ、鳥の声、波の音。そして草花の匂い。目を瞑ると世界はずいぶん違ったものに感じる。ぼくは気づいた。ぼくはあまりに目に頼りすぎている。目に見えないものが目を瞑ることで見えてくる。簡単なことだった。ぼくは新鮮な感動を覚えた。花や木々の写真をたくさん撮るつもりで来たのに、カメラを構えようという気持ちは、もはや起きなかった。
鬼さんこちら
2月3日は町内会的には某少年の誕生日であったが全国的には節分なのであった。昼過ぎにいらしたお客様によると、某高校横の寿司屋には、のり巻きを買う客の長い行列ができていたという。その夜、わが家では久しぶりに、おそらく10年ぶりに豆まきをすることになった。豆まきなんか無意味でアホらしいと常々思っていたのだが、最近、一見無駄で意味がなさそうに見えることにこそ重要な意味が隠されているような気がしてきたのである。ただし、のり巻きを無言で一気に食うというハイレベルな無意味さには未だついていけない。ところで、先日F氏から借りた茂木健一郎の「やわらか脳」に、こんなことが書いてあった。豆まきは、鬼をうちに入れないためにではなく、うちに入ってきて居つきそうになった鬼を外に追い払うためのもの。無菌状態を保つためではない、と。トラブルを恐れ過ぎると進歩もないし、セレンディピティも発現し難い。
不安な夢
ここ数日、変な夢ばかり見る。今朝は巨大なサメと戦う夢を見た。その前はライオンだった。いずれもかなり不安な夢である。サメと戦って、ぼくはどうなったか。残念ながら食われてしまった。主人公は死んでしまうのである。ふつう、主人公を殺すと、その作家の作品は次から売れなくなる。夢の鑑賞者が自称フランス人ならそれで納得するだろうが、ハリウッド映画が好きなアメリカ人は怒りだすかもしれない。カメラワークは悪くなかった。サメが上半身をくわえ込むのと連動して視界も真っ暗になる。その合理的な描写には自分の夢ながら感心した。ぼくはそこでガバッと跳ね起き、以来、明け方まで寝付けなかった。
役者
昨日のお昼過ぎ、カウンターで気の合う常連さんたちとどうでもいいような話をしているとき、「演じる」という話になった。ほとんどの人が、社会の中では自分の役を演じている。子供はわがままだから、そのままの自分を出してくる。突然、人前で泣き出したり、大声で叫んだりする。大人になったら、そういうわけにはいかない。たとえば、腹が立っても、ニコニコしている自分を演じなければならない。人前で喜怒哀楽をストレートに出してたら、いつの間にか周囲に誰もいなくなるかもしれないし、下手をすると、病院行きになるかもしれない。
その時お客様の中に劇団の役者さんがいたのだけど、彼女の自然で静かな佇まいに、ぼくらは魅了されていた。目の動き、おしゃべり、呼吸の間合い、その一挙一動に無駄がなく、必然性が感じられた。演じているのではなく、自分を正確に表現しているように見えた。演じるプロは、演じないこともできるのだと思った。それは道端の花が演じるわけでもないのに美しいのに似ていた。