冬みかん

みかんの皮がダブダブになって、味もブヨブヨになってきた。
みかんの季節は終わったらしい。
限られた間にしか手に入らないものがある。
そういうものは目に見えて愛おしい。
冬のみかんは器用だから愛される。
不器用なみかんは愛されない。
いつでも手に入るものは愛されない。
愛するものは手に入らない。

“冬みかん” への6件の返信

  1. 誰にでも愛される人を
    羨ましく思った時期があった
    でも
    自分は愛を求めてばかりで
    与えているのだろうか・・
    不器用なりに
    愛を模索しています
    愛されれば・・・
    逃げちゃうくせに・・・

  2. うまくコメントできないかもしれませんが、ぼくなりの考えを述べてみます。器用な愛は、未熟なものだと思います。作為的な愛はオレンジ色だったり、金色だったり、大声を出したりして目立ちます。成熟した大人の愛は代償を求めないので、言うなれば無色透明で静かなものだと思います。だから、もし、逃げ出したくなる愛があるとすれば、それは、まだ未熟な愛かもしれません。たとえば陽だまりで感じる太陽の暖かさ。そこでもし感謝の気持ちが自然と起きるなら、そこには確かな愛があるのかもしれません。

  3. ぼくもお日様は大好きです。
    天気のいい朝、日当たりの悪い場所の鉢植えの草花をお日様の当たる塀の上にずらっと並べます。花たちが喜んでるのが伝わってきて、ぼくもうれしい。花も太陽もぼくもみんなも、目に見えない、深い根っ子でつながってるんじゃないか、と時々思います。
    変なやつだと思うでしょうが、ぼくはよく、太陽や、花たちに向かって「ありがとう」っていいます。
    それにしてもつくづく、ぼくの文章って一人よがりだなぁ(笑)
    冬はいつもこんな感じになってます。とほほ

  4. ぼく自身、愛は与えられ続けているのに気づいてない場合が多いな、と思います。すべて奪われたときに気づくんでしょうね。でも、その瞬間、死んでしまうでしょうけど。気づかないってことは、手に入らないことと同じじゃないかなぁ。
    麦の花さんは、いつも良い物、本物を正しく求めてるように見えますよ。

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