コーヒー片手に

昨日からまたユクスキュルの「生物から見た世界」を読み返している。前回読んだのは今年の4月20日。手術前の検査で入院しているとき。なぜ何度も繰り返し読むのか。それは深いところからこみあげてくる恐怖心から。ぼくは常識の海に沈むのが恐ろしい。それはいうなれば、自分が「裸の王様」であることに気づかない、あるいは忘れてしまうことだから。4月20日のブログにぼくはこう書いている。「ぼくはこの主観的世界の中で生きていることを自覚しながら日々楽しんでいる。でも、常識的な日常生活は、気づかぬうちにぼくをそこから連れ出してしまう。そうなるとぼくの人生は冒険の様相を失ってつまらなくなる」と。泳いでいる魚は自分が濡れていることに気づかない。ぼくが言いたい「裸の王様」とはそういうこと。メタ認知能力みたいなはなし。「松岡正剛の千夜千冊」で彼はこう書いている。


フォン・ユクスキュルとダーシー・トムソン。この2人の名。若き日のぼくが聞き耳を立てたアーティストたち、たとえば杉浦康平、磯崎新、河原温、ナム・ジュン・パイク、奈良原一高、川田喜久治、武満徹、大辻清司、北代省三……たちが、この2人の名をしばしば口にしていた。「やっぱりユクスキュルの環境世界という見方が必要なんだよ。ダーシー・トムソンの生物から見たデザインだよね」。
1970年前後の話だが、そのころアーティストやデザイナーや写真家や作曲家は自分が世界を切り取っているのか、世界が自分を切り取っているのか、そんな問題を口角泡をとばすように交わしあっていた。人間は自然にフィルターをかけて歪曲して再生しているのか、それとも自分の心象を世界だととりちがえているのか、そんなことをよくよく考えていた。そのころ27歳か28歳だったぼくは、そうか、そこまで考えているものなのかと感心した。さっそく読んでみた。とくにユクスキュルだ。なるほど、断然にすばらしい。以来このかた35年ほどがたったけれど、この本はいまなおぼくの大事な大事なアンチョコになっている。


この本はいまなおぼくの大事な大事なアンチョコになっている。と、彼は書いている。その通り。ぼくにとっても、いまなお大事な大事な大事な、これは人生マニュアルなのです。というわけで、さっきまでこの本を訳した日高敏隆さんの「動物と人間の世界認識」を読んでました。コーヒー片手に、麦わらをかぶって。

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