汝と出会うために

ゴーギャンの作品に「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか」という有名な絵があるんだけど、この一見素朴な疑問を正面切って考えるとたちまち頭がチクチクしてくること請け合いだ。先日図書館から「庭とエスキース」という、写真と著者のモノローグによるドキュメントを借りて読んだが、この著者も同じような疑問にとらわれている人にみえる。自分とは何者なのか。北海道の原野に広い庭を造り、そこで自給自足の生活を送っている一人住まいの老画家を訪ね、その生活ぶりを写真に撮らせてもらう。著者が老人に質問をする。なぜ絵を描くのですか。などと。老人の反応は、著者と同じく、自分とは何者か、を問い続けて生きてきた人であるらしく、なかなか深く、味わいがある。マルティン・ブーバーは「我と汝・対話」で、人は「汝」と出会わなければ「我」と出会うこともない、と言っている。未知の他者と出会わなければ、未だ知らない自分自身に出会うことはできない。著者は図らずも「汝」と出会う機会を得、自分とは何者か、という深い疑問の手掛かりを手に入れたようにみえる。そういえば、映画ブレードランナーに出てくる人造人間レプリカントは、自分の出生にかかわる懐かしい思い出の写真を持たせることで安定する、という設定になっていた。当然ながら、工場で製造される人造人間は、子供の頃の懐かしい思い出はもちろん「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか」という深い疑問を持つことはできない。思えば切ない話だ。