たしかに狭い

うーん、なかなか入れない。ぼくには想像以上に狭かった。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

“たしかに狭い” への9件の返信

  1. 懐かしい言葉。。。
    高校の入学式の時に聞かされたのがこれでした。その後も在学中はことあるごとに聞いたように思います。当時は 「大学に向けて目一杯勉強しろ」という意味、ぐらいの浅い認識でしたが、今読み返してみるともっと大事なことが書かれていますね。当たり前ですけど。

  2. ☆chikako~♪さん、ぼくももう少しスリムになって、ネコのように、スルリと通りぬけたいと考えているのですが…。でも、スリムになるのって、意外と難しいです。トホホ
    ☆ゴクニフさん、ご存知のように、この「狭き門」の文句はマタイの福音書に書いてあるものです。ぼくも今までは、確かにそうだよなー、ごもっとも。程度に聞き流していたのですが、最近、この言葉が胸の奥深くに大音響で響いてくるようになりました。人生は冒険だと思いますが、時に、今まで聞こえなかった声が遠いかなたから、あるいは、心の奥底から聞こえてくることがあります。今回のゴクニフさんのように、普段聞き慣れた言葉の中から深遠なキーワードが浮かび上がることもあります。そういう時、ちょっと立ち止まって耳を澄ますのが冒険者の心得ではないでしょうか。なーんちゃって。アンテナを高く上げて、恐れずに冒険しましょう。大阪の巣窟喫茶店以外にもおもしろヤバイ発見が次々に出てくると思いまっせー

  3. この言葉は、初めて聴きました。
    今夜もう少し、この言葉の意味を考えてみたいと思います。
    ご意見をお訊きしたい事柄があります。

  4. こんばんは
    聖書は派手に分厚くて、おまけに小さな字がいっぱい詰まっており、思わず尻込みしてしまう本ですが、たとえばこのマタイの福音書は1時間もあれば読める短編?です。難度もさほど高くありません。とりあえず読んでみてはいかがでしょう。それで、もし小さな門を見いだせたとしたら、揺羅さんはとてもラッキーな方です。書いてあるように「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ」だからです。ルカの福音書にはこう書いてあります。「力を尽くして狭き門より入れ」。たぶん、ふつうの(状況の)人には、思い切り力を尽くさないと、その門を見つけることさえできないのだと思います。自分は何でも見える、分かっている、と信じているために、それが邪魔をして奥に隠された大事なものに気づかず、見ることができない。また、たとえ門を見いだすことができたとしても、役に立たない多くのガラクタを大事そうに身にまとって捨てきれず、不必要に肥満しているために、狭い門からは入れないわけです。ぼくのことですが(笑)

  5. こんばんは
    いつものことながら、スプーンさんのお話を噛締めながら読ませていただきました。確かにわたしは無知なので、狭き門の近くにいるのかもしれません。しかしながら、わたしは狭き門をくぐりたいと思っているわけではありません。わたしが意見を伺いたかったのは、滅びに至る門をくぐってしまった人に、どのように忠告をしたらよいかだったのです。物騒な話でごめんなさい。

  6. こんばんは
    新約聖書によれば、人の入る門は次の二つしかありません。滅びに至る大きな門、その先に希望はありません。そして、いのちに至る小さな門です。中間はありません。すべての人が、いずれどちらかの門に入ります。ここでその詳細を話すとけっこうな量になるので、申し訳ありませんが、聖書でお確かめください。なお、悪を行なったがゆえに滅びに至るのではなく、善を行なったからいのちに至るのでもありません。あるひとつの簡単なことができるかどうかでそれは決まるのです。

  7. こんばんは
    聖書を読んだわけではありませんが、
    今日答えが分かった気がします。
    スプーンさんの言葉を、わたしのブログに引用させていただいても良いですか?

  8. ぼくは簡単な事を難しく書こうとする悪い癖があるので解りにくかったと思うのですが、この記事が揺羅さんの求めている答えのヒントにでもなれば、とてもうれしいです。引用はぜんぜんかまいませんよ。よろしくおねがいします。

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