「むかしね、テレビの日曜洋画劇場でこんな映画があったんだけど、だれに聞いても分かんなくて、見たくても見ることができないんですよ」お客さんはカウンターにカップを置くと、残念そうに首を振った。彼は天気のよい休日、手入れの行き届いた古いバイクで、一人、山道を走り、その帰りにコーヒーを買いにくる。「車は海へ走るのがいいですが、バイクは山ですよ」彼の美学ではそうなってるらしかった。彼が帰ったあと、ぼくは彼から聞いた映画の内容をもとにネットで検索してみた。案外簡単に見つかった。ジャージ・コジンスキー原作「Being There」(邦題 チャンス)。主演ピーター・セラーズ。翌日、店にいらした映画通の常連さんに、こんな映画があるらしいですよ、と話すと、早速ツタヤで借りてきてくださった。観てみるとなかなかおもしろい。この映画、現代社会を風刺したユーモアたっぷりのコメディとして十分楽しむことができる。でも、一たび主人公の立場に立って、その深い孤独に目をやると、この作品の持つ別な面が見えてくる。その孤独は、主人公が知能発達不良とも受け取れる「純粋無垢な心」を持ち続けていることに由来する孤立に見える。純粋無垢な心とはなんだろう。聖書にある「神は自分に似せて人を作られた」時点における「穢れない心」だろうか。もしそうなら、主人公はこの現代社会にあって神そっくりのまま振舞っているのだ。ぼくの解釈は飛躍しすぎかもしれない。でも、この作品をそういう視点で見ると、奇妙なラストシーンを含め、いくつかの違和感が解消される。聖書の記述によればイエスを真に理解するものはついぞ現われない。というより、定義的に人はだれも神を理解できない。しかしイエスは言う。「だれでも私につまずかないものは幸いです」。イエスは人として生まれたが、人の中にあって孤独だった。さて、翻って、映画チャンス。この映画の鑑賞者は主人公チャンスをどのように見るだろう。知能レベルの低い子供のような男と見るか、それともそこに「神に似せて作られた者」を見るのか。作者はぼくらにこう言っているように思える。
「だれでも彼につまずかないものは幸いです」
“人の心を持ったサルは人間か” への2件の返信
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『チャンス』懐かしいです。DVD化されてたんですね。
確か年齢が今の半分くらいの頃に観ましたよ。
ピーター・セラーズが狙った路線!という匂いがする映画でした。
チャンスを取り巻く人々が、まるで“裸の王様”を崇め祭る
愚かな大人たちのように、当時の私には見えましたっけ。
チャンスその人より、周囲の人間の反応という部分が興味深かったです。
今観たらどんな風に感じるかな。
ああ、やっぱりtotto*さんはご覧になってましたか。ぼくはこの映画の存在自体知りませんでした。実はこのバイクのお客さん、4~5年前にも、この映画のことをぼくに尋ねたんです。その時も、たぶん、同じキーワードでネットを検索したと思うのですが、その時はヒットしなかった。店にいらっしゃる映画通の方にも聞いてみたのですが、分からなかったのです。そーかーtotto*さんに聞けばよかったなぁ。といっても、その頃はまだおたがいblogデビューしてなかったですが[E:sweat01]
totto*さん、ぜひもう一度この映画を観てみてください。そして、感想を聞かせて。最後のシーン、普通に解釈すると、やりすぎというか、必要ないというか、かなり突飛な感じがすると思います。
——– 以下 ネタバレ注意 ——–
ラストシーン、富豪の葬儀から抜け出したチャンスは墓地の横にある湖にたどり着き、その水面を平然と歩いていく(この記事の写真参照)。遠くからは、亡くなった富豪自らが書いた弔辞が延々と読まれるのが聞こえてくる。その内容と、彼の水上歩行の謎を符合させると・・・あ、この映画のモチーフはいわゆるひとつのアレじゃん、と、いうことになるような気がするのですが。独断(笑)