朝日のあたる家

今日から5月。5月といえば、なんとなくアレですね。なんだかミョ~にコンパスが狂ったような感じになって、不安定になる。いわゆる五月病、ですね。ぼくの場合、五月に限らず、一年中コンパス狂ってますけど。さっき、ヒマつぶしに古~い人生相談書を読んでましたら、次のような相談が載ってました。
この春、東大に合格し、上京しました。ところが五月病というのでしょうか、エロ本を見ても勃起せず、大学にも行かず、ひたすら三畳一間の下宿で呆けています。やっとの思いでこのハガキを書きました。巨匠、私に活力を授けてください。
(東京目黒区 呆太郎 19才)
回答者である某作家はこれに答えていわく
「とりあえず三畳をやめて四畳半に移ってみたら、どや」
たったこれだけ。でも、深い示唆を含んでいてハッとさせられます。こういう場合、高尚な精神論を説かれたところで具体的な結果は出にくいように思えるんです。ぼくは植物の世話をするのが好きなほうですが、植物はおかれた環境の影響をもろに受けるんですね。日陰がダメだったり、水をやりすぎると枯れたり。寒がりだからといって、室内においておくとダニにやられちゃう。ヒトだって、そう変わらないんじゃないかと思うわけです。植物はガマンなどできないから、環境が悪いとすぐに枯れちゃう。分かりやすい。つまり、ガマン強い人は注意したほうがいいですよ、という話です。ぼくは朝日の当たらない家に長く住んでいると、なぜか調子が悪くなる。もちろん、朝日が当たらないからって、死ぬわけじゃないけれど。ちなみに、朝日のあたる家に住んでます。

短くも美しく燃え

腕立伏せ、腹筋運動、それにヒンズー・スクワット。この三つは毎日欠かさず行っている。夏が近づいてきた。夏といえば海。海の似合う男とはどういうものであろう。海の夕日はすばらしい。そこではだれもが自分をふりかえらずにいられない。浜辺にたたずみ、沈み行く夕日を静かに見つめている男。古いフランス映画なら、そこで fin の文字がフェードインされるであろう。愛とは、人生とは。 だが、それが海パンの上に腹がはみ出た男のシルエットでは悲しすぎはしないだろうか。男はパンのみで生きるのではない。独自の美学で生きるのである。腕立伏せと腹筋運動は室内トレーニングの定番だが、昨年より新たに導入したヒンズー・スクワットに関して、ぼくは無知であった。やり過ぎてひざを痛めたのである。最近、健康のためなら死んでもいいという人も増えてきたが、ぼくのばあい、自分の美学を完遂するためなら、ひざを痛めることも厭わない、というつもりは全くない。今日からヒンズー・スクワットは止めることにした。

風邪はつづく

どういうわけか、当店のお客様には天性のエンターテイナーが多い。彼らはそう簡単には笑えないダジャレやジョークを次々に繰り出してくる。いつもならなんとか努力して笑えるのだが、風邪をひいている今、それが出来ない。接客の極意とは何だろう。それは、お客様がナニをして欲しいか瞬時に見抜き、速やかに応えることだ。たとえば、お客様が自分では非常におもしろいつもりでダジャレを放ったように見受けられる場合、とりあえずおかしくなくても誠意をこめて笑ったほうがよい。いちいち「ここは笑うべきところでしょうか」などとは聞けないからだ。接客には高度の洞察力と演技力が常に要求されている。それがプロの仕事というものだろう。

科学的な態度

酒に酔ってゴキゲンなときなど、自分なりの自然観、科学観を居合わせた人にシツコク話すことがある。そこに展開される内容は独りよがりの最たるもので、常識的な自然観、科学観を有する人には甚だ奇異に受け取られている、と思われる。たとえば、進化論がぼくにはどうしても納得できない。最近、NHKの自然科学番組には必ずといっていいほど進化論が顔を出す。進化論は科学なのだろうか。進化論に則った解説を聞いていると、その解釈があまりに恣意的に感じられ、いたたまれない気分になってくる。生命現象に対するアプローチも常識的ではない。生物は、どう考えても理屈の分かった者が設計したとしか、ぼくには思えないからだ。奇跡と断じたくなるその精妙さ。考えるたびに鳥肌が立つ。とまあ、この手の変テコなイカモノ科学談話をぼくの周りの人たちはいつも聞かされ続けているのである。迷惑な話だと思う。
さて、最近読んだ雑誌に次のような記事を見つけ、なんとなく、我が意を得たり、的な気分になって勝手に喜んでいる。以下、雑誌 風の旅人より、生物化学者 村上和雄「遺伝子は一刻の休みもなく働いている」より抜粋。
遺伝子は、情報を世代を超えて伝えるだけではなく、すべての細胞の中で、一刻の休みもなく見事に働いている。この働きは、私たちの意志や力だけでは到底不可能であり、人間業ではない。十年以上前から私は、この大自然の偉大な働きを「サムシング・グレート」と呼んでいる。私はサムシング・グレートは目に見えないが、たしかに存在すると思っている。大自然が長い年月をかけ、丹精こめて創り上げた遺伝子の姿を眺め、その絶妙な働きを知るとき、その存在を確信する。世の中には、目に見えないもの、現在の常識や知識で理解できないものはいっさい無いと思っている人が多い。しかし、「いのち」に関する知識に限っても、生命科学や現代科学で明らかにされているものは、ごく一部でしかない。したがって、常識や現代科学で理解できない現象のほうがはるかに多くあり、その存在を認めないという態度は科学的でない。私たちは、幼い子供のような素直な目で、こざかしい常識を捨て、物事を眺めてみることが必要である。

うんざり

こんどの風邪はなかなか治らない。たまには風邪もいいね、なんて思っていたが、もううんざりだ。ぼくはもう一週間以上も低空飛行を続けている。コーヒー屋がコーヒー屋らしく振舞うには一定レベルの演技力が必要だが、風邪をひいている今、それが困難な状況になっている。

彼女のスイッチ

今日もぼんやりしている。風邪が治らない。
「顔色が優れないようですが」
珈琲を買いにいらした女性のお客様が心配そうにおっしゃった。
「風邪がなかなか治らなくて、ごほっごほっ、ううぅ…」
ぼくはいかにも苦しげに返事をした。すると彼女の目はふいに輝きを増し、梅干を入れたお茶だの、某メーカーの薬が効くだのといった話を微に入り細をうがって強く説き始めた。そして、いつもより多く珈琲を買って帰られた。かわいそうに思われたのだろう。図らずもぼくは彼女のスイッチをONしてしまったらしい。それは母性というスイッチ。

ガオー

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今日は定休日。曇り空。でも、午後から天気は持ち直し、さわやかに晴れてきた。雨のあとの青空は澄んでいて気持ちがいい。風邪もだいぶ治まり、頭もスッキリしてきたので、庭の植木の剪定をすることにした。070423_02_2伸び放題になっている木の枝を片っ端から切りまくっていると、裏庭で変な物体を発見した。それはヤツデの若葉であった。かなり不気味である。これを見て浮かんだのが、アレ。あの物語。下水道が普及していなかったそのむかし、各家庭のトイレはドボン式であった。便器を覗きこむと、そこには暗く果てしない暗黒世界が広がっていたのである。そこでこういう物語が生まれた。トイレで紙がなくて途方に暮れていると「赤い手~、青い手~、どれがいい~?」という声が、便器の奥から聞こえてくるのである。それに答えると、便器の中から答えた色の手が伸びてくるというのだ。しかしどう考えても、あそこから出てくる手は茶色いと思うんだけど。
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今日もフラフラ

昨日からフラフラしているのは風邪のせいだ。ぼくはデリケートなので風邪をひきやすい。節約のため、普段は脳の出力を50%に抑えてすごしているが、風邪をひくと、いきおいその出力は10%程度にまで下がる。ぼくは薬が嫌いなので余程のことがない限り服用しない。が、明日は定休日だ。休日に風邪をひいて過ごすのは情けない。しかたなく薬を飲むことにした。めったに薬を飲まないので、やたら効く。くらくらする。

誘われてフラメンコ

070421いい天気だ。春らしさが戻ってきた。半袖でいらっしゃる女性のお客様もいる。sexy. 土曜の午後は案外ヒマだ。ぼくは駐車場に出て喫茶店の花壇を眺めていた。甘い匂いがあたりに漂っている。見上げると、入り口の支柱に沿ってジャスミンの花が咲いている。となりにも青と白の花が咲き、これもまた夜の香水のように甘ったるい匂いを放っている。
キミたちはヒマそうにぶらぶらしているボクを誘っているのか?
なんだかフラフラする土曜の午後。
(ところで、この写真の花の名前、なんだっけ)

ココロの冬

やっと暖かくなった。ここ数日の天気はいったい何だったのだろう。ぼくはまるで白夜の薄明の下、シベリアのツンドラ地帯を背を丸め、あてどもなく彷徨う放浪者のようだった。あまりの寒さに、もう少しでぼくは野垂れ死にするところだったのである。ぼくにとって寒さは呪いである。寒いとぼくの心は、柔らかくもその実ヒヤリと冷たい、ロッテ雪見大福のように芯まで冷え込んでしまうのだ。そう、ぼくは呪われているのかもしれなかった。しかし、いわれのない呪いはやってこない。ぼくにかかった呪いとは…。原因が分かれば呪縛を解く手がかりになる。白雪姫の呪いは毒リンゴ。王子のキスで解ける。美女と野獣も似たようなものだ。それはハリウッド的、単純なハッピーエンドである。ぼくはフランス映画が好きだ、というフリをするのが好きだが、フランス映画は概してハッピーエンドにならない。どこか難解で複雑、まるで不幸にこそ人生の奥義が隠されているといわんばかりに暗くひねくれ、ハッピーエンドは程度が低いとでも言いたげなイヤな終わり方をする。場合が多い。一方ぼくには複雑でわかりにくいものを高級とみなし、好もうとする逆行的傾向がある。自虐的なのだ。そうだ、それが呪いなのだ。ぼくは冬を憎みつつ、その奥底では愛しているのかもしれなかった。