金曜日の男

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第三の男という映画があったが、どんな内容だったか忘れてしまった。金曜日の男、という映画を知っているだろうか。ぼくははまだ見たことがない。たぶん、そんな映画はない。今日取り上げた金曜日の男、は映画ではなく、川辺町の某豆腐屋の異名である。これはぼくが勝手につけた名前で、この豆腐屋が必ず金曜日に来るのでそうなった。ぼくは彼の豆腐しか食べないことにしている。と、いいたいが、そんなことはない。彼の豆腐が近くで売っていないから、しょうがない。しかし、彼の作った豆腐がうまいことは事実である。今日も5丁買ってしまった。

秋の気配です

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勤務中、仕事に関係ないことをやっていると、上司に怒られる。上司も部下もいないボクは、だれにも怒られない。最近ボクは、ヒマさえあれば、店の外に出て写真を撮っている。写真を撮っているところに、お客様が来て、必ずこう聞く。
「何を撮ってるんですか?」
いちいち正確に答えるのがめんどくさいので、こう答えている。
「ははは、秋の気配、ですよ」
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夜のレモングラス

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屋上にレモングラスの鉢がある。直径70センチほどの大きな鉢で、かなり重い。重いので、台風が来ると、屋上のテーブルをひっくり返し、これを重石の代わりに載せている。レモングラスは、香りのよいハーブティーをぼくにプレゼントしてくれるので、まめに水遣りをして、枯れないように気をつけている。でも、見た目は悪く、愛想がない。夜になると、幽霊が似合いそうな、ただの草薮に見える。

雨の中の星空

パソコンの白い画面を見つめていた。
何時間も。
ぼくのなにかが止まったので、
動き出すのを辛抱強く待っていたが、
待つのに飽きて、外に出た。
外は冷たい雨が降っている。
雨にぬれているぼくを虫の声が取り囲む。
目をつむり、耳を澄ますと、
音のひとつひとつが輝きはじめ、満天の星になった。

たまには家にいることもある

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休日はドライブに行くことが多いので、家にいることがあまりない。たまには家と庭の手入れでもしようと思い、今日は家にいた。070910_05朝一番で一階のスチール棚の棚板の移動を行い、次に、屋上のコンセントが壊れていたので、新しいのを買いにホームセンターに出かけた。取替え作業が終わると、庭に出てサボテンの植え付けをした。これは先月、鷹師店のお隣さんからいただいたもの070910_06ついでにプランターに生えまくっていたウチワサボテンもプランターから出して庭に植えた。そのプランターに新しい土を入れ、ネギの種をまいた。そのとき時計は3時を指していたのでアイスキャンデーを食った。疲れた。
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今日は、空気がさらりとしている。秋だ。時間が余ったので、庭の植物の写真を撮った。おしまい。
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人生の8分の2は泡である

人生の8分の2は泡だ、などというと、
「8分の2? やだなー、それって4分の1と同じじゃないですか」
と言い返す小賢しい輩がきっといる。
今夜は、いつもお世話になっている陶工房fooのご主人と奥様をお招きし、自宅の屋上でバーベキューを行った。夜風が涼しい満天の星の下、まずは乾杯。ぼくはいつものようにキリンビールサーバーで、雪のような泡をのせたビールを次々に注いでいった。
そしてぼくは、もったいぶって宣言した。
「人生の3分の1はアワである!」
わけのわからない文句であるが、なんとなく由緒ある名言のように聞こえるから不思議だ。
炭火で焼く鳥刺しはとてもうまい。ジョッキもすぐに空になる。
ぼくはビールを注ぎながら
「人生の5分の2はアワである!」
と、再び宣巻いた。すると、fooのご主人が
「人生の8分の2は泡である!」
と応じた。
「ふっ、そりゃ4分の1と同じじゃないですか」
ぼくは首をひねった。だが、8分の2と4分の1は明らかに違うのである。8人の女と付き合って2人にふられるのと4人と付き合って1人にふられるのが異なるように。ぼくはいつも、つい余計なことを口走る。言わずにいられないこの性格には、われながら閉口する。そう、この文章も然り。余計なのだ。水をかき回すようなもので、泡が立つだけのこと。

弱気なぼく

ぼくは夏が好きで、秋は嫌いだった。
ぼくは秋が嫌いだ。
そう信じていた。
だから、ツクツクボウシの声がとてもとても嫌いだった。
しかし。
正直に言おう。
ぼくは秋が好き。
ぼくは突然、秋が好きになってしまった。
夏が好きだけど、秋も好き。
だれにも言いたくなかったけど、秋が好きになった。

量は質に転化するか

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ぼくは好きなことばかりやっていたいし、好きなものに囲まれていたい。嫌いなものは遠ざけたい。今、ぼくのまわりで生き生きしている人を思い浮かべると、みな、好きなことをやっている。ぼくは今、写真を撮るのが好きだ。仕事中も、ヒマを見つけては首にカメラをぶら下げ、店の周りをうろうろしている。子供の頃、ぼくは虫取り網を持ってキレイな虫を追いかけまわしていたが、写真を撮る行為はそれとよく似ている。しかし、何枚撮っても、思うような写真は撮れない。やはり落胆するのだけど、ちっともめげない。満足できる写真が、そう簡単に撮れるはずがない、と思うからだ。ぼくはぼくの審美眼を信頼したいし、期待したいのだ。(ぼくって、つくづくナルシストだな)
審美眼で思い出したが、美しいものは恐いという。雑誌「風の旅人」の編集長が、「美しいものは、恐い。それは、自分自身の内実を何らかの形で変容させる力があるからなのだ」と、ブログで述べていた。ドストエフスキーも「美」については別のスタンスから「恐い」といっていた。よーな気がする。動物は火を恐れるが、人は自ら火に近づき己を焦がす。美の恐ろしさ。そこにぼくは強く惹かれる。わくわくする。ぼくはぼくの信頼の置けるスコップを手にし、地面に穴を掘るように「美」を追及したい。

吹上浜キャンプ村

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朝、豆を焼いていると、開店前だというのに階段をせわしく駆け上がってくる者がいる。案の定、妹であった。また事件か。彼女は何でも事件にしてしまう。
070904_03「ねーねー、これ見てよ、これー」
といって、古びたアルバムをカウンターに載せた。
「うわ、そんなホコリっぽいものを出すなって」
ぼくはきたない物が嫌いなのだ。
「見てん、これ、アッコにそっくりじゃん」
アッコとは、ぼくの娘の名前。妹は近年、急に年老いた伯母を看るため、独居している彼女の家に通いはじめた。そこで、母の古いアルバムを渡されたのだという。
「後で見るから」
そういってぼくは、ボロッちいアルバムを棚の上に放った。ヒマそうに見えるかもしれないが、豆を焼いている時のぼくは忙しいのだった。
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食後、ひと息ついたところでアルバムのことを思い出し、手に取ってみた。どれも女学校時代の友人と撮ったものばかりで、興味の持てる写真はほとんどなかったが、目を引いた写真が二枚あった。ひとつは「吹上浜キャンプ村」の看板が写っている写真。左のほうに煙を吐いている汽車が写っている。おそらく、5~60年前の写真だろう。でも、そこに母の姿はなかった。もうひとつは、吹上浜にずらりと並んだ、パワーのありそうなオネータマたちの写真。みんなニコニコしている。なぜか、ずっと見ていても飽きない。やすらかな気持ちになれる、不思議な写真だ。母はぼくが幼少の時に死んだので、いつまでたっても若いままだ。うらやましい、そう思った。