大きな太陽

080108_01
今朝、今日の太陽はずいぶん大きく見えるなぁ、と思いながら店に向かいました。空が霞んでいたので、太陽が滲んで広がったのだと思います。夕方、お客様がいない時間に店の屋上に上がって夕日を見たら、やはりいつもより大きな、不思議な太陽が浮かんでました。

手作りのおかし

焼イモを食って元気が出てくるのは、やさしい人が作ってくれたお菓子を食べて、うれしくなるのと似ている。イモやミカンは、太陽や雨や土が、ぼくという子供に作った手作りのお菓子だ。ぼくはいつも勝手な解釈をする。でも、ほんとにそう思っている。イモやミカンを食べるとき、ぼくはうれしくて泣きそうになる。子供みたいに

いつもの温泉は熱かった

080107_00
雨のち曇り。昨日の予報ではそうなっていた。ぼくの大切な休日が雨だなんて。080107_07ぼくは不幸になりそうな予感がしたが、不幸ぶるのは今年はやめようと思ったのでやめることにした。くもり空の下、車は海岸通りを南下していた。やがて車は右折し、人気のない道路をしばらく走ったのちに、いつもの某温泉の駐車場の奥に停止した。昨日までは大変混んだであろう駐車場も、今日はガランとしていた。たまにはミヤビな気分に浸るのも良かろうと思い、今日はヒノキ風呂選んでみた。080107_06いい気分だった。今度家を建てる時は、湯舟はヒノキにしようと決心した。温泉を出るころには、空はすっかり晴れ渡っていた。某温泉を後にした車はいつものように某湖を半周し、某山のふもとにある某ハーブ園へと進入した。ちょうど昼だったので、レストランに入り、日当たりの良い窓際のテーブルに座った。いつものようにAセットを注文。080107_02食後のデザートも、いつもと同じハイビスカスのシャーベットをチョイス。なにもかもがいつもと同じだった。いつもと違うのは、ぼくだけなのかもしれなかった。今日は早く帰って、映画を見るつもりだ。帰りに、ナントカ物産館に寄って新鮮な野菜を物色した。すると、あの、個人的に幻のブランドのほうれん草を発見してしまったのだった。
080107_05

早起きは眠いのだった

080105_01
昨夜は早く床に就いた。しかし、夜更かしが続いていたせいで、なかなか寝付けなかった。やっと眠れた、と思ったとたん、目覚ましが鳴った。4時30分。 そういえば今日、最後から2番目のお客さん(特にダレとは申しませんが)は、朝起きたら3時だったという。午後の。
これほど一生懸命仕事をしている自分を見るのはまれだ。というくらい、今日は仕事をした。ような気がした。そんなわけで、疲れているのでぼくは寝ます。みなさんも早く寝てください。おやすみなさい。
 写真は今年のコーヒーカレンダー

正月モード最終日

080104_01
今日でぼくの正月休みは終わり。明日から仕事だ。なかなか良い正月だったと思う。毎日のんびりとコーヒーを飲んで、本を読んだり、写真を撮ったり。元旦の朝、初めてかけたアルバムはLed Zeppelin IV。本は、F少年から借りた阿川弘之著「大人の見識」がおもしろかった。ソファに深く腰を沈め、じっくり時間をかけて読んだ。ソファで本を読むのは久しぶり。この手の本を、もっと若いときにたくさん読めたら良かったのに、と残念に思うのだけど、この歳だからこそ、味わい深く、おもしろく読めるのかもしれない。明朝は4時半起き。今夜は早く寝よう。

正月モード三日目

080103_01
残り少ない正月休みを無駄なく過ごそうと、きょうは一見、無駄に見える時間を過ごすことにした。コーヒーを淹れ、食堂のイスに寝そべり、年末にF少年から借りた本をぼんやりと読みはじめた。読み進んでいくと、エドワード・グレイという英国の人が、人間が幸福である条件としてこんなことを言った、と書いてある。
第一、自分の生活の基準となる思想
第二、良い家族と友達
第三、意義のある仕事
第四、閑を持つこと
「閑を持つこと」が、人間が幸福である条件に入っている。堂々と。この本の著者(阿川弘之)もこう言っている。「これらの条件の中で、閑を持つ事、というのは人はそれ程大切な条件と思わず、見落とすかも知れず、面白く思った」
ぼくは時々思う。この瞬間瞬間、確かにぼくはぼくなのだけど、そのぼくとはいったいなんだろう、と。どこかの国に「自分を知るには一生かかる」という諺があるのだが、おそらく自分というヤツは一生かかってもわからない。人は自分がわからないまま一生を終える。ここでいう「閑を持つこと」とは、自分を客観視する視座を確保することではないだろうか。つまり、いつも自分に向かって問いかけ続けること。自分と対話すること。そんな、閑人じゃないとできないことをすることが、自分を自分でいさせることであって、すなわち、人間として幸福である条件のような気がする今日この頃なのです。
なに書いてるんだろ。おれって閑かも。

大掃除はまだ終わっていなかった

080102_01
台所の換気扇の清掃はぼくの担当だ。わが家の換気扇は、扇風機のようなプロペラがない。代わりにハツカネズミの回転車が入っていて、それが高速で回転する。もちろん、ネズミが回すわけではない。その前面には金属製の特殊な網が三枚並んでいて、それが気化した油を冷却、液化し、キャッチする仕掛けだ。080102_02この金属パネルとハツカネズミにへばり付いた油は、ふつうの洗剤ではまったく落ちない。特別な液体洗剤を50℃の湯で薄め、それに15分浸す。と、コスることなく、ザマーミロ、という具合にキレイさっぱり落ちる。はずだったのだが、パネルはきれいになったものの、ハツカネズミは固形物が厚くこびり付いたままだ。パネルは毎年清掃するが、ハツカネズミの掃除は2回ほどサボった。毎年やっていれば、こんなことにはならなかったのだ。めんどうなことになった。洗剤をつけ、ハブラシでこすってみたが、ビクともしない。ぼくは作戦を練った。台所に立ち、一心不乱にハブラシでこすり続けるのは修行僧の世界である。ぼくにはまだ早い。それに、既に洗剤によって油分は取れているのだから、洗剤は不要のはず。となると水も不要だ。ぼくは台所から日当たりの良い縁側に場所を移した。そしてハブラシをステンレスのヘラに持ち替え、再び作業を開始した。音楽はドアーズをチョイス。ぼくはステンレスのヘラで固着物を削り取っていった。思った以上に良く取れる。いい気分だった。しかし、それは思いのほか時間のかかる作業だったのである。
中略
時計は午後3時を回っていた。作業を開始したのが午前10時。なんという時間の無駄であろう。正月に、こんな時間の無駄遣いをして良いものだろうか。ぼくはヘトヘトだった。茶碗一杯分くらいの削りカスができていた。080102_03ぼくの大事な時間はカスに変換されたのだ。なんだか捨てるのが惜しかった。だれかこの削りカスを買ってくれないか。安くてもいい。そうすれば少しは報われるだろう。(実際、捨てきれず、肥料になるかもしれないと思って木の下に埋めた)作業終了後、昨年末からの続きで、水漏れの栓を取り替えた手水鉢を定位置に戻し、ホテイアオイを浮かべたのだった。

反省の日はゴルゴ31なのだった

071231_01

今日は12月31日。今日で2007年も終わりなのだった。この一年を振り返ってみると、(毎年のことだが)反省する事柄の多さとその分量に圧倒され、食欲がなくなる。鬱になる。ところで今日の天気はひどかった。風が強く、雨が降ったり、晴れたり曇ったり、アラレが降ったりやんだり、であった。そんなわけで、恒例の年末大反省会(通称ゴルゴ31)は来年の天気の良い日に順延することにした。
071231_03

とにかく今日は天気が悪すぎる。こんな暗く寒い日に反省なんかしたら、冬の旅人になったまま帰って来れなくなるかもしれない。で、何をしてたか、ちゅうと、玄関の前に置いてある手水鉢の排水栓を取り替える作業を始めてしまったのだ。普段、この手水鉢にはホテイアオイが浮かべてあり、季節になると涼しげな花を咲かせてくれる。で、なぜ排水栓を取り替えるかというと、排水口からの水漏れがひどくなってきたから。鉢を横倒しにし、木の栓を抜く。排水口をハブラシで掃除し、新しい栓をする。という簡単な作業なのだが、今回は水漏れを完全に防止するため、栓の周りをコーキング剤で埋めることにした。そのため、排水口の周囲が乾くのを待たねばならない。と、いうわけで、今日の作業は排水口の掃除でオシマイ。

071231_02

その後、蛍光灯のカバー、エアコンのフィルターの洗浄、動きの悪くなったサッシの鍵の分解掃除、グリスアップなどを終えた。いわゆる大掃除。気分はすっかり年末だ。日が暮れかかったころ、郡山町の親戚の家に、正月用の餅をもらいに行った。その家の居間には箱火鉢がおいてある。さっそく炭で焼いた餅をごちそうになった。餅が焼けていく様子を眺めるのが、これほど楽しいとは思わなかった。餅もスバラシク美味しかった。ぼくもいつかは箱火鉢を家に置きたい、と思った。
ダラダラ書いてたら、もうこんな時間。そろそろソバを食う時間だ。
来年もよろしく!