
昨日は雨だった。ぼくは傘をさしてノースポールを植えた。ぼくはこの白い花が好きだ。園芸用の土と赤玉土と腐葉土をバケツに放り込んで、均一になるように手で混ぜる。腐葉土や大きな土の塊は手で揉み解す。手と土の会話。ぼくの手と会話した土が、ノースポールの棲みかとなる。だから安心。
ラフマニノフな午後3時
桃
小文字の世界

佐野眞一著『目と耳と足を鍛える技術』にこんなくだりがあった。最近考えていることに関係してたので備忘として。
『忘れられた日本人』は、政治や経済といった“大文字”の世界とは無縁の“小文字”だけで書きとめられた名もなき庶民の記録だった。私は土佐山中の橋の下で暮らす古老の昔語りや、対馬の老いた漁師の語る懐古談にいいしれぬ衝撃を受けた。
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった」(「土佐源氏」)と語る元牛飼いの哀切な言葉や、「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(「梶田富五郎翁」)と語る開拓漁民のたくましい言葉には、手垢のついた“大文字”言葉にない清冽な“小文字”の世界がゆるぎなく定着されていた。
中略
テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい“大文字”言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかなコメントを聞くたび、「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。彼らは同義反復しているだけで、実は何も語っていないのに等しいのである。
中略
世界はニュースキャスターとやらの粗雑な頭よりはるかに大きく複雑である。そしてディテールと謎に満ちている。
彼らが多用する“大文字”に対して“小文字”とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
ちなみに、この本のはじめにこんなことが書いてある。
日本の教育の最大の欠点は、インタビュー技術とフィールドワーク技術をまったく教えてこなかったことである。インタビューやフィールドワークは、何も新聞記者やテレビレポーターを養成するだけの技術ではない。人の話を引き出し、正確に聞き取って、深く理解すること(インタビュー)と、見知らぬ土地を訪ねて、風景と対話し、現地の習慣を身につけること(フィールドワーク)さえできれば、たいていの難関は突破できる。
虫
人は賞賛を欲する動物である

わが家の玄関の照明は、人が入ってくると自動的に点灯する。赤外線センサーが人を感知してスイッチを入れてくれるからだが、このセンサーが壊れた。家を建てて10年以上経つ。電気製品は、だいたい10年で壊れることになっている。
家人が、「直せる?」と聞くので、「どうかな」と言って、ぼくは器具を取り外し、分解し始めた。複雑な機械を分解するときは、その様子をビデオカメラで録画しながら作業を進めるのだが、単純そうな機械なので、深く考えず、ネジを片っ端から外していって基盤を露出させた。予想したとおり、リレーに問題があった。久しぶりに半田ごてを手にし、修理した。器具を元通り結線し、天井に取り付ける。スイッチオン。やったー、無事点灯。ぼくはとてもうれしかった。しかし。
直ったことに、だれも感動しない。
「すごーーーーい!」とか、
「ステキ!あなたって、何でもできるのね」とか、
「修理代が浮いたから、今夜はご馳走よ」とか・・・
理由はわかる。ぼくは、機械が壊れると、ほとんど自分で直してしまう。直せてあたりまえ、なのだ。
あたりまえに感動は無いのである。
パーフェクト・ブルー

田口ランディのノンフィクション、「パピヨン」は、彼女がチベットに着いて間もなく高山病にかかった、というくだりから始まる。
酸欠状態のため思考ができない。言葉が消えていく。なにを考えようとしてもとりとめがなくなる。しまいには考えることに疲れてしまい、考えることを放棄した。
無だった・・・・・。いかなる思考も浮かんでこない。
中略
とにかく空気が薄いのでなんの考えも浮かばない。でも目と耳はクリアだった。とても気持ちがよかった。チベットの空は青い。青という色に街が抱かれている。私も抱かれている。青が世界を満たしている。この青は呼びかけてくる色だ。青が私を呼んでいる。どこか遠くから、じっと誰かが見ている。もちろんそれも言葉にしたのは後のこと。なにも浮かばない。ただ空が見ている。いや、これも後づけだ。「空が見ている」ということも思わない。言葉は消えていた。
中略
もう、瞑想の状態に戻ることはできなかった。あの、三昧の状態は、一瞬で終わってしまったのだ。何度も努力したけれど同じ状態にはならなかった。たぶんあれは、高山病がもたらした奇跡だったんだろう。
これを読んで、ぼくもまったく同じ体験をしたことを思い出した。数年前の夏、ぼくは海底に落としたものを拾うために長時間潜り続けて酸欠状態に陥り、ひどい吐き気に襲われた。砂浜で休んでいると少し気分が良くなり、波打ち際をふらふら歩き出した。その時の空の青と海の青が、色というのではなく、強い意志としてぼくに直接語りかけてきてぼくを圧倒した。語りかけてきたがそれは言葉ではなかった。ランディさんが描いているのとまったく同じことが起こった。以来、ぼくの中で何かが大きく変ってしまったような気がする。
その日のことをブログに記しているのだけど、さっき読んでみたら「限りなく理想的なブルー」という題になっていた。あの青をもう一度体験したいとは思うのだけど、だからといって酸欠状態を再現しようとは思わないし。
サルの握手

ひさしぶりに海に来て、だれもいない波打ち際を歩いた。

どこまでもどこまでも歩いていると、水際にきれいな白い鳥がいた。
写真を撮ろうと思って、そうっと近づいていった。
でも飛んでいった。

数日前の、某ブログの記事を思い出した。
———- ここから ———-
私は自分が若い日に傾倒した哲人の言葉を思い出していた。正確な言葉ではないが、子どもの教育にも打ち込んだその哲人は、子どもから、「わたしはリスが好きなのに、わたしが近づくとリスは逃げてしまいます。どうしらたいいのですか」と問われた。彼の答えは意外なものだった。そしてその答えは、私の心にずっと残った。彼の正確な言葉は忘れたが、こんなふうに答えた。「リスがきみに安心感が持てるように、毎日リスのいる木の下でじっとしていなさい。何日も何日も。」 その奇妙な答えは彼自身が自然のなかの暮らしで実践していたものだった。大樹の下で禅定ともなく静かに日々座って、リスや山の動物たちが彼を恐れなくなるまで慣れさせ、そしてやがて彼の体にリスが乗り駆け回るようまでなった。猿がやってきて握手を求めたともあった。
猿の握手。私はそんなバカなと思ったが、別途動物学の本で、仕込んだわけでもなく自然の猿にそういう習性があるのを知った。







